日本人はなぜ「男色」に惹かれるのか?
現在観測 第27回
男の性欲は究極のところ排泄欲に過ぎず、少年愛が寺院や武士の戦場など女性禁制の場所で栄えた事実を考えると、日本の男色がやむにやまれぬ性のはけ口という側面を持っていたことも否めないでしょう。しかし、ただのはけ口、あるいは女性の代用物であったら、稚児や少年たちを敬称をつけて呼んだりはせず、また戦争が終わったり、坊主も妻帯が可になったりと禁制の条件が解けたら、さっさと廃れてしまっていたはずです。
それでも、男色と美少年が滅びなかったのは、美しい少年との交情が、神との交信に等しいものと、昔から考えられていたからでしょう。
南北朝時代、現在の島根県にある鰐淵寺という寺で、稚児を断つべきかどうかの議論がありました。童子を巡っての争いがあんまりひどかったためです。しかし、出た結論は以下のようなものでした。
「児童は法塔を継ぐ種であり、冷然を慰める仲立ちである。男色の結びつきがなければ、悟りを開くことが出来ない」
よって少年を寺内に置くべきだというのです。
また、日本の寺社には長く「稚児灌頂」と呼ばれる儀式がありました。これは高僧とのセックスによって少年を観音菩薩へと変化する秘儀で、いずれも、少年との性愛が、神へ近づく行為と考えていることで一貫します。
少年は神様。
だからこそ、日本では少年に美と英雄性が課せられ、壮年の男性も彼らを庇護し愛することによって人格の完成に近づくと考えられつづけてきたのです。こうした考えは、日本の物語の一典型、美少年の英雄とそれを庇護する豪傑、牛若丸と弁慶、豊臣秀頼と真田幸村、あるいは文楽や歌舞伎で見る優男と侠者といったパターンに見出すことが出来ます。
女性にとっても、高貴な美少年と豪傑の一番いを見たり聞いたりするのは喜びだったようです。枕草子で有名な清少納言はこんな言葉を残しています。
「いみじう美々しうてをかしき君も随身なきはいと白々し」
大変に美しく高貴な貴族も、屈強な従士たちがいないと心もとなく見える、そう言っているのです。この言葉からは現代の腐女子にも一脈通じるような、男同士の関係性を賞玩し楽しむ感性も感じられます。
後に、この「いみじう美々しうてをかしき君」の典型だった藤原頼長が、我が身を源義仲の父で屈強の武士の義賢に捧げたと日記「台記」に残していますが、異色の天才政治家だった頼長の秘話を清少納言が知れば、さぞかし「萌えた」ことでしょう。
しかし、こうした美少年と男色の輝きも江戸時代中期あたりから急速に色あせていきます。それでも、明治時代まではその末裔が生存し、南方熊楠が高野山でさまよい歩く元稚児を目撃したりしています。しかし、少年は性器を疥癬に侵され、まことにうらびれた姿でした。彼は、庇護されていた寺房が衰微し、身をひさぎながら山をさまよい歩いていたのです。
近代化が進み、科学によって神々が打ち払われ、機関銃や飛行機によって戦場から英雄も滅びたことにより、本当の意味での美少年も日本から消え去ってしまったのでした。
しかし、それでも、我々の精神風景の根っこには、ヒーローとしての、あるいは神としての美少年が確かに息づいています。
それを今でも見ることが出来るのは、世界中で脚光を浴びている日本の漫画やアニメのなか。
これらの媒体で主人公として活躍するのは、今でも日本では壮年の男性ではなく少年です。
優美な肢体、清らかな心映え、神がかりの言動、勇気と献身。
かつて神の従属者であり、時に神そのものだった「美少年」たちの余光を、私たちは彼らのなかに確かに見るのです。
参考文献:『男色の日本史–なぜ世界有数の同性愛文化が栄えたのか』(ゲイリー・P・リュープ著、松原國師監修、藤田真利子訳、作品社)/『武士道とエロス』(氏家幹人著、講談社現代新書)/『男色の景色―いはねばこそあれ』(丹尾安典著、新潮社)/『江戸男色考〈若衆篇〉』(柴山肇著、批評社)/ 『江戸男色考〈悪所篇〉』(柴山肇著、批評社)『世界ボーイズラブ大全』(桐生操、文春文庫)/『図説 ホモセクシャルの世界史』(松原國師著、作品社)/『少年愛の美学』(稲垣足穂著、河出文庫)/『破戒と男色の仏教史』(松尾剛次著、平凡社)/『饗宴』(プラトン著、久保勉翻訳、岩波文庫)