英国人ムスリムの軌跡から分かる「日本人ムスリムの起源」とは
イスラーム世界が歴史を動かす【山本直輝】
■イギリスのイスラム雑誌に登場する日本人ムスリム
さらに、クイリアムが発行していた月刊誌『イスラム世界』はイスラームに改宗した日本人の存在をクリスチャン・ヘラルドの記事を典拠に紹介している。
『クリスチャン・ヘラルド』によれば、日本の若き紳士がクルアーンを学ぶという明確な目的のためにコンスタンティノープル(イスタンブール)にやってきた。「信徒の長」であるオスマン帝国スルタンは、彼を丁重に迎え入れ、オスマン帝国のイスラーム学者を彼の指導役とし、さらに英国のムスリム達の長(シャイフルイスラム)を彼と対面させた。そしてこの日本人はトルコ人のイスラーム学者とイギリス人のムハンマド教(イスラーム)のリーダーの薫陶によってイスラームに改宗し、アブドゥルハリルと名乗るようになった。その後彼は二年間のイスラーム教育を終え、日本に戻ってきたという。この記事は日本のイスラームの未来を期待する形で終わっている。
この記事で紹介されている英国のムスリム達の長がアブドゥッラー・クイリアムを指していることは明らかだろう。また日本人改宗者のアブドゥルハリールは、おそらく野田のムスリム名アブドゥルハリームの誤植なのではないかと思われる。
野田正太郎は二年におよぶイスタンブール生活を終え、1893年に日本に帰国した。その後、時事新報にトルコに関する記事を寄稿する。その内容はオスマン帝国の社会や文化に関するもので、ナスレッディン・ホジャなどトルコ文学を代表する作品も紹介するなど当時の日本社会にとっては非常に新鮮なトピックであっただろう。
しかししばらくして野田はいつのまにか時事新報を退社する。そして彼のその後の人生は、残念ながらクイリアムが願っていたような形にはならなかったようだ。野田は1896年に私印私書偽造事件の犯人として有罪となり収監される。さらに1900年には私文書偽造の犯人として報道され、野田は行方をくらませることになる。そしてその後、1904年に37歳の短い生涯を終える。
帝国間のグレートゲームが渦巻く激動の時代、アブドゥルハミド二世の許で日本人は英国人のムスリムと出会った。まさにイスタンブールが文明の交差点と呼ばれることの証左ではないだろうか。
文:山本直輝
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