北海道に福岡県ゆかりの地名が……?!
『福岡 地名の謎と歴史を訪ねて』刊行記念。福岡の地名と歴史を訪ねる旅へ【第五回】
◆北海道開拓と集治監設立
幕末の福岡藩は月形洗蔵(つきがたせんぞう)ら「勤王党」を大量に処刑し(乙丑の獄)、人材を枯渇させたため「負け組」となり新時代から取り残された。洗蔵の従弟である月形潔(きよし)は投獄されたものの、「明治維新」により赦されて藩の要職を歴任後、上京して官吏となる。ところが「勝ち組」薩長の出身ではないため、なかなか立身出世のチャンスがめぐって来ない。
そのころ、政府にとっての急務は、無尽蔵の資源を有する北海道の開拓だった。明治二年(一八六九)七月には開拓庁を置き、維新により没落した士族を送り込んだが、高草密林が生い茂り、熊が出る危険もある奥地までは、なかなか足を踏み入れようとする者がない。
そこで絶大な権力を持つ長州出身の内務卿伊藤博文は、囚人を送り込み強制的に開拓に従事させようと考える。士族反乱、自由民権運動など、政府に反旗を翻した「国事犯」が各地の集治監(刑務所)には溢れていた。国家に逆らった者の生命人権は、現代人の想像を絶するほど軽く扱われていたのだ。
そのため伊藤は内務省権少書記官だった潔に、集治監設立場所調査のため、北海道に出張させた。明治十三年(一八八〇)四月のことである。数人の部下を引き連れた潔は海路、北海道に渡り各地を視察。その結果、候補地として、石狩川上流の肥沃な土地「スベツブト」を推薦する。政府は検討のすえ、ここに集治監を建設することを決める。
建設工事は、明治十三年から十四年にかけて行われた。潔に引率された東京小管(こすげ)の集治監の終身囚三十九人が、これに従事させられた。 やがて原始林の中に、獄舎が完成する。
土台はコンクリート、その上にトド松の丸太を積み重ねる、堅固な「丸太獄舎」だ。つづいて職員官舎九十四戸が設けられたのをはじめ、多くの人や物資がこの地に集まり、警察や郵便局、学校も出来て集落が形成されてゆく。三年後には、人口は二千人を超えた。
- 1
- 2