劣化した日本人は戦後の過ちと訣別し、
日本人らしさを取り戻さなければならない
いま誇るべき日本人の精神 第1回
日本はサンフランシスコ講和条約が発効することによって、一九五二(昭和二十七)年に主権を回復した。
その翌年に、国会が全会一致によって、戦没者遺族と戦病傷者を援護する法律を改正し、戦勝国による東京裁判をはじめとする、いわゆる戦争犯罪裁判によって法務(刑)死し、あるいは投獄された同胞を、名誉の戦死者や、戦病傷者と同等に扱うことを、決めた。
■戦争犯罪者の即時釈放を求める署名運動
保守政党から、日本社会党まで主要政党が「戦争犯罪人」という概念そのものを、認めなかったのだった。大多数の日本国民に、幕末からの血が脈打っていたから、何が正しいか、わきまえていた。
独立を回復すると、すぐに日本弁護士連合会が中心となって、当時、まだ服役していた、いわゆる戦争犯罪者の即時釈放を求める署名運動が、全国にわたって展開された。
四千万人以上が請願書に署名したが、当時の日本の人口のちょうど半分に当たった。今日であったら、六千万人が署名したことになる。
日本にこれほどおびただしい数にのぼる署名を集めた請願運動は、今日に至るまで、空前絶後だった。
それを受けて、政府が戦勝諸国と交渉して、一九五八(昭和三十三)年までに、いわゆるABC級戦犯全員が釈放された。
当時の日本国民は、戦争の記憶が鮮明だったから、開戦に至った経緯を承知しており、日本だけが戦争責任を負うべきでなく、連合国の圧倒的な武力に屈服したのであって、日本が敗れた「国」であることを、知っていた。独立国としての意識を、まだ旺盛にいだいていた。
主権を回復した四年後に、いわゆる〃A級戦犯〃として有罪判決を受けた重光葵が、鳩山内閣の外相として、返り咲いた。翌年、日本国民は〃A級戦犯容疑者〃として投獄された、岸信介を首相の座につけた。
その五年後に、やはり〃A級戦犯〃として、有罪判決を受けた賀屋興宣が、池田内閣の法相となった。
今日と違って、〃A級戦犯〃はけっして汚名ではなかった。重光も、賀屋も、出獄すると、すぐに総選挙に立候補して、衆議院議員として当選した。
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