戦争の犠牲者を忘れないために
慰霊という戦争遺跡をめぐる
だが、犠牲者を忘れ去ることに抗い、犠牲者の記憶を長く記憶に留めるために行なわれた営為もある。
本稿では、「慰霊」という名の戦争遺跡をめぐる。
亡くなった将兵の生き写しの軍人像
要塞や基地の跡だけが戦争遺跡ではない。戦地に赴き、そして犠牲となった軍人たちの慰霊や追悼のための施設もまた、戦争の記憶を現代に伝える軍事遺産といえる。
「英霊」の追悼施設は、靖国神社や護国神社ばかりではない。市町村や集落単位で建てられた忠魂碑、歩兵連隊が設けた陸軍墓地など数えあげればきりがなく、さまざまな慰霊の形があった。
そのなかでも現代人からすると奇異に思えるのが軍人像。出征して亡くなった将兵に生き写しの人形を作るというものだ。
大慈山岩屋寺中之院(愛知県南知多町山海土間)の境内には、古代中国の兵馬俑のようにコンクリート製の軍人像が並んでいる。像のモデルは、昭和12年に上海近郊の呉淞で敵前上陸した際に戦死した、名古屋の第三師団歩兵第六連隊の将兵たち。遺族が故人を偲んで、戦没者一時金で写真をもとに作らせたものという。数10cmの胸像から等身以上の立像まで形はさまざまで、等身大ということもあってリアルだ。水兵の姿も見える。
作者は東海地方を中心に各地にコンクリート像を残した浅野祥雲《しょううん》[明治24年(1891)- 昭和53年(1978)]。強烈な色彩とユーモア溢れる表現性などから、一部に熱狂的なファンを持つ作家である。だが、中之院の軍人像はどこか寂しげな表情が印象的だ。全部で92体あるうち台座のない66体が無縁という。
真偽は不明だが、戦後に進駐軍がやって来たときに取り壊しを命じられたとされ、その際僧侶が「国のために死ぬということはアメリカも日本も変わりはない。日本人の手で壊すことはできない。どうしても壊すというなら、我々をこの場で銃殺した上であなた方が壊せばいいだろう」と体を張って守ったという。
このコンクリート像以外にも「軍人人形」「英霊人形」と呼ばれる木像群が全国数ヶ所にある。静岡県岡部町の常昌院、群馬県藤岡市の龍源寺、岐阜県美濃市善光寺の英霊堂などで、いずれも日露戦争で戦病死した軍人たちをモデルにした木像だ。着色され顔つきや軍装が一つ一つ違っており生々しい。
死んで人形となっても階級章を付けられ秩序を保って整列し続ける姿は、軍隊という組織の非情さと厳格さを伝えているようだ。