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近年の発掘調査で明かされた全貌とは?

信長初陣の城・那古野城(後編)

織田信長肖像画/写真提供アフロ
 天下統一を目指す過程で、最もTPOに適した場所に城を移していった信長。先進かつ合理的だった移転の狙いとは? 歴代の居城をたどってみる。

 

天文22年(1553)に、道三は正徳寺で信長と会見。その際、うつけ者と聞いていたはずの信長が大きな器量と度量を持っていることを見抜き、いずれは美濃は信長の軍門に下ることを予言した。

また、攻略した安祥城は奪還され、その代わりとして信広(のぶひろ)と竹千代(たけちよ、後の徳川家康)との人質交換がなされた。信長はここで後の家康と交流を深めた。 

弘治元年(1555)、信長は当時一族の主家として尾張下四郡を支配し守護代であった織田信友(のぶとも)を滅ぼし、清洲城を奪取すると拠点を移した。そして、信長が離れた後の那古野城は、叔父信光(のぶみつ)、重臣林秀貞(ひでさだ)らが入り、やがて廃城となった。

那古野城は、元々は室町奉公衆であった駿河今川の那古野氏の居城であった。大永年間(1521〜1528)には今川氏親(うじちか)が尾張進出の拠点とし、今川氏豊(うじとよ)の居城となっていた。

信秀が奪取し信長の居城となった頃の城は、この時の城のままと考えられるが、徳川家康がこの地に名古屋城を築城し、完全に近世城郭の名古屋城の地下となってしまったため、那古野城を直接に偲ばせる遺構はほとんど存在しない(注)。

近年、発掘調査で確認された幅約11メートル、深さ4メートルの堀の規模から、城の形態は勝幡城と同じように室町幕府の武家儀礼に則った立派な御殿形式の建物が建ち、土塁と堀で囲まれた方形居館形の城と考えられている。

 

(注)現在の名古屋城の二の丸あたりが那古野城跡と考えられている。

 

文/木戸雅寿(きど・まさあき)

1958年神戸市生まれ。奈良大学文学部史学科考古学専攻卒業。広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、滋賀県安土城郭調査研究所を経て、現在滋賀県教育委員会文化財保護課。専門は日本考古学。主な著書に『よみがえる安土城』(吉川弘文館)、『天下布武の城 安土城』(新泉社)等。

 

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