「冤罪」で消されたジャニーズと岡田有希子。芸能を殺す人々こそ消えてくれ【宝泉薫】
一方、今回のジャニーズ騒動においても、キャンセルが起きている。
事務所名やグループ名の変更、トップの交代やタレントの引退、曲の封印やCM契約の解除。「NHK紅白歌合戦」では44年ぶりに出場者がゼロになりそうだ。レコ大がジャニー喜多川に贈っていた特別音楽文化賞も取り消され、タレントたちが「ジャニーさん」のエピソードを楽しく語ることも今はない。
岡田有希子のときのように、まるごと消されたわけではないが、彼女はあくまで個人であり、芸能界での実働も約2年にとどまった。これに対し、ジャニーズは半世紀以上にわたって莫大な数のタレントと作品を生んできたことを思うと、こちらもかなりの消されようである。
また、岡田について「自殺幇助の犯人」みたいにされたと書いたが、ジャニーズについても法的な意味ではほぼ「冤罪」にすぎない。雑な証言に雑な報道、事務所に好意的でなかった勢力の報告書に乗せられ「法を超えて」救済するなどと公言してしまった対応ミス。要はジャニー喜多川を大悪人に、ジャニーズタレントたちを悪の味方に仕立てて叩きたい空気感に抗えず、濡れ衣を着せられただけのことだ。
叩く側が時々、錦の御旗みたいに持ち出す裁判の結果にしても、その実態は「週刊文春」の記事をジャニーズ側が名誉毀損だと訴えたもの。セクハラと思われる事実も認定されたが「文春」も損害賠償金を支払わされた。法的な証拠は後にも先にもこれだけなので、現在の叩き方、追い込み方は明らかに行き過ぎだろう。
にもかかわらず、なぜそこまでキャンセルしようとするのか。岡田有希子のときも感じたことだが、こういうとき、人や事務所、作品を消そうとするのは、芸能を愉しめない人たちだ。芸能を好きではないというか、その作品にもスキャンダルにも人間ならではの業がにじみ出ることを思えば、つまりは人間そのものを好きになれない不幸な人たちである。
そこで思い出されるのが、芸能を愉しむ達人だったナンシー関がマイケル・ジャクソンについて書いた文章。彼女は「マイケルに関してのスキャンダルは、なんか私の好みだ」として、こう綴った。
「たとえばマイケルは猿のバブルス君(今も生きてるのかなあ)が大好きである。親友だ。猿だけど。もう、バブルスを抱いて成田空港に降り立ったマイケルってだけで、私は本当は十分うれしいのである」
また「マイケルは童貞だ」という噂についても、
「これは主語がマイケル・ジャクソンでなければ噂としてさえ成立しないだろう。やっぱり『人柄』と言うしかない」
といった調子で絶賛(?)した。
なお、この時期、マイケルは少年への性的虐待疑惑騒動の渦中にあったが、無実を主張。ただ、仕事上のキャンセルが相次いだこともあって、示談による金銭的決着を選択した。さらに、その12年後にも同様の騒動が起きたが、このときは裁判をやり、勝訴している。つまり「冤罪」だと証明したわけだ。
それはさておき、ナンシー関の愉しみ方が優れているのは、一貫して自分を「客」あるいは「野次馬」の立場に置いているところだ。しかし、最近は「客」や「野次馬」では飽き足らない人が増えた。トラブル、もっというならイジメのような状況に自分も加わり、弱そうなほうを積極的に叩くようになったのだ。そんな愉しみ方をする人が増えたことが、ジャニーズ騒動を大きくしてしまった。