「リカレント教育」という国策看板用語に騙されて〝社畜どころか国畜〟にならないために【大竹稽】
キャリアアップ志向という「思考奴隷」に要注意!
■短期的にスキルを身につけさせ人手不足を補うもの。それだけ
本来、「教育」は長期的でかつ双方向的なものです。先生は生徒になり、生徒が先生になり、その関係が相続されながら、どちらも熟していくのが教育なのです。しかし「リカレント教育」の講座は、短期的にスキルを身につけさせるものが大半を占めています。私の知らない「本来的教育講座」があればいいのですが、寡聞にして知らず。
確かに、環境整備は大切です。「学びたい」人に手が届くような環境は欠かせません。しかし、学びたくもない人に強いるのは学びに矛盾します。どんな権威も、内発的な動機に劣るのです。そして、短期的なスキルは、さらに次の新しい短期的なスキルによって駆逐されていきます。機械は、次のバージョンにアップデートできなくなれば捨てられるのです。
アップデートとか、人間に対して気楽に言うなよ!
取り乱しました。短期的な結果が出せなければ生産性に反します。機械化された人間は、死ぬまで生産性という名の苦役を、流行語の権威にごまかされながら強いられるでしょう。
「リカレント教育」は、人間を教育・育成するものではなく、機械化させていくものになっていませんか?
「思考奴隷」は、疑問を持ちません、そして自ら答えを出しません。それが機械。むしろ、この流れに対して躊躇し、態度を決することができない人たちが、本来の人間力を示しているのです。知らないことは愚かではありませんし、一見無鉄砲に見えても、知っていてなおその選択を選ぶのも愚かではありません。愚かとは、権威に踊らされて疑うことを知らないことなのです。
「リカレント教育」、なんてかっこいい響きでしょう。「キャリア・アップ」、なんて魅力的なんでしょう!
まぁ、いいでしょう。私は時代の寵児になろうとか、みんなのリーダーになろうなんて、逆立ちしても天地がひっくり返っても思いません。ただ、豊かで健やかで自由な考えを楽しみたい。だから、めくらましにあっている思考奴隷たちが見えてしまうのです。知識でもスキルでも、「なければだめ」という奴隷的思考です。「なくてもなんとかなる」という健全な思考を養うのが、教育だと私は確信しています。
さて、ネガティブの哲学者大竹稽は、今回「リカレント教育」に憤っています。今回はキャリアという視点から考察しましたが、残り二回は「自主性」と「現役」をターゲットにしております。どうぞお楽しみに。
文:大竹稽
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