どうして「悪」は「陳腐」なのか? ナチ・プロたちの発想こそ全体主義的である理由【仲正昌樹】
前回、ブックレット『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』の熱狂的なファンたちの強圧的な振る舞いとの関連で、「絶対悪」という概念を持ち出し、「絶対悪」の化身である存在――例えば、「ナチス」や「統一教会」――について少しでも肯定的に聞こえる発言をする人を、集団で攻撃する傾向について論じた。今回は、「絶対悪」という概念を振り回すことがどうして危険なのか、『イェルサレムのアイヒマン』(一九六三)でのハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」をめぐる議論と関連付けて論じたい。
『イェルサレムのアイヒマン』は、ナチスの親衛隊中佐で、ユダヤ人問題専門家であったアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴した際のレポートとそこで見たことについての哲学的考察から成る著作である。名前を隠して、アルゼンチンに潜伏していたアイヒマンを、イスラエルはナチス政権崩壊から十五年後の一九六〇年、秘密警察モサドを派遣して逮捕し、翌年エルサレムで裁判にかけた。アイヒマンを「人道に対する罪」で訴追するのが国際法的に妥当だとしても、アルゼンチンの主権を無視して、他国で警察権力を行使することや、当事者とも言うべきイスラエルが単独で裁判を行うことも許容されるかは、いまでもしばしばし議論される--今日であれば、どんな極悪人でも、他国の主権侵害をして逮捕し、国際法に関わる犯罪を、単独で刑事裁判にかけるようなことをすれば、その国も無法国家扱いされるだろう。
裁判が始まる前、多くの人はアイヒマンを、ユダヤ人に対するあふれんばかりの憎悪と、人を苦しめることに喜びを見出す嗜虐的な性格を見せる、小説や映画に出てくる悪魔を絵に描いたような人物を想像していた。自分の罪をいくら責め立てられても、悪魔的なせせら笑いを浮かべ、私を死刑にしても無駄だ、というような不敵な態度を取る存在。
しかし、実際に法廷に立って証言するアイヒマンのイメージはそれとは程遠かった。彼は、ユダヤ人を苦しめて殺す計画を立てたのではなく、上から与えられた任務、例えば、〇〇にいるユダヤ人△△万人を■■まで輸送する手段を確保せよ、といった任務の遂行のために、輸送や警備を管轄する部署、移送先の収容所などに連絡し、必要な人員と手段を提供してもらうよう調整する官僚仕事をこなしただけ、という実像が次第に明らかになった。アイヒマンの実際の証言の映像は、イスラエル政府が公開しており、YouTubeでEichmann Trialで検索すれば、すぐ見つかる。
アーレントは、普通に業務をこなしていく役人のようにしか見えないアイヒマンの在り方を「悪の陳腐さ banality of evil」と形容した。この点が主な原因となって、ユダヤ系の知識人を中心に、アーレントはナチスの犯罪を相対化しようとする非難のキャンペーンが起こり、何人かの長年の友人とたもとを分かつことになった。日本でも話題になった映画『ハンナ・アーレント』(二〇一二)でも、激しい非難を受けてもアーレントが意見を変えなかったことに焦点が当てられた――モサドを登場させるなど過剰な演出があり、アーレントを英雄化しすぎているので、あまりいい描き方とは思えなかったが。
その後、アーレントの思考の哲学的射程が次第に理解されるようになったことや、人間は――確信的なナチス党員ではなくても――一般的に、科学者とか教師といった権威ある立場の者から、「大丈夫だ。やりなさい」と言われると、さほどためらわずに残酷なことをやってしまうことを示したミルグラム実験(一九六三)の結果が公表されたことなどから、「悪の陳腐さ」論がそれなりに受容されるようになった。
しかしその一方、ナチス研究をする歴史家等から、“アーレントの誤り”が指摘されることがしばしばある。主な議論は、アイヒマンは単なる普通の役人ではなく、確信的な反ユダヤ主義者であることが史料から明らかであり、それをアーレントが見誤ったというものである。ブックレットの著者等も、別の著書で同じ趣旨のことを言っている。