「ナチ・プロ」の正体とは? 人間をまるでモンスターのように狩り、バグのように修正しようとする人たち【仲正昌樹】
相手も生身の人間であり、いきなり一方的に集中攻撃されたら、恨みに思ってどうなるかわからないということを考慮に入れないナチ・プロたちの振る舞いを見る限り、彼らなりにナチス的な言説が広がることの危険性について真剣に考えているとは思えない。不祥事を起こした特定の個人や組織に「責任を取らせる」ことを目的に炎上騒ぎを起こすのであれば、やり方のモラルやキャンセル・カルチャーの蔓延などの副作用はいったん度外視すれば、結果的に目的を達成できる可能性はある。しかし、ナチ・プロの行動にはそういう“合理性”さえない。ゲーム感覚で狩りをして、結果として“本当の敵”を生み出す可能性が高いし、彼ら自身が、反体制派を狩るナチスの突撃隊を模しているようにも見える。
相手を生身の人間ではなく、ゲームのモンスターのように扱うナチ・プロ自身、ゲームのキャラのように、決まった台詞――「お勉強して下さい」「この程度の理解力で…」「噴飯ものです」「お話になりませんね」「終了!」――を一定のタイミングで打ち込み続ける。人間性を失って自動的に運動し続ける機械のようである。
ハンナ・アーレント(一九〇六-七五)は『全体主義の起原』(一九五一)や『イェルサレムのアイヒマン』(一九六三)で、人と人が人間同士として向き合うのではなく、巨大な戦争・統治機械の部品になったヒトが、ヒトをただの原料物質のようにいかなる感情的なためらいもなく処理するようになることを、全体主義の究極の帰結として描いている。
ハンナ・アーレントの最初の夫――アーレントは二回結婚している――でもある批評家のギュンター・アンダース(一九〇二-九二)は『時代おくれの人間』(一九五六、八〇)で、現代においては、高度に発達した技術の巨大な機構(機械のネットワーク)が、人間を含む自然界に存在する全ての対象を、何かを製造するための原材料もしくは機械の部品として取り込んでいることを指摘している。人間が自発的に設定したように目的も、実は予め機構によって用意されている。労働力を効率的に再生産するため、かつ、消費を喚起するために余暇が組まれ、その余暇を充実するために必要なメニューが設定され、自分の余暇を満喫したいと“自発的”に欲望する主体が、そのメニューをこなすことに懸命になっている、というように。
アンダースに言わせれば、全体主義のイデオロギーによって運営される国家だから、ユダヤ人をただの工業生産の原材料として収容所で処理するメカニズムができあがったのではなく、機構による支配が進んでいくに従って、それを人間たちのレベルで制度化する機構として全体主義国家が出来上がったのである。彼に言わせれば、人間をフォーマットに従って再生産する巨大な機構が、自己再生産するために反ユダヤ主義のイデオロギーを利用したのであって、その逆ではない。