日常の〝悩み〟に終わりはない。「教師」と「旅人」二足の草鞋を履いてわかったこと【西岡正樹】
「井の中の蛙大海を知らず」というが果たして・・・
【「旅の中に生活がある」という違和感】
私のライフスタイルは、間違いなく子どもの頃に観た「ロードムービー」に影響されている。あの頃から、私は1か所にとどまらず彷徨っている人や動物に魅せられ、自分もいつかは「旅の中に生活がある」生き方をしてみたい、とずっと憧れていた。しかし、成長と共に、私の憧れていた旅のイメージは、その時その時の様々な出逢いによって形を変えていった。
それでも年齢を重ね、何歳(いくつ)になっても「旅すること」は変わらず自分自身の中に存在し、私は時間を見つけては国内外に出かけた。しかし、私の旅はいつまでたっても「旅の中に生活がある」ものにはならなかった。私は「永遠の旅人」にはなれないのかなと感じることもあった。しかし、いつか「永遠の旅人=旅の中に生活がある人」でありたい、ずっとノマドのように世界中を旅したいという思いは、私の心の中に強く存在し続けていた。
そして遂に、その時がやって来た。2001年、私は24年間続けた教職を退いた。49歳になる年だ。無謀とも言われた自分の決断に、それを聞いた誰もが驚き唖然としていたが、私自身はとても冷静だった。私の行動は、夢に向かう「時間の流れ」に押し出されただけだったので、私は気負うこともなく「旅の中に生活がある」という生き方に、大きく舵をきることができた。
2001年9月、手始めに私は北米カナダを横断した。アメリカに入り、ニューヨークからヨーロッパへ。世界中が慌ただしくなっている時だったこともあり、2か月間もイギリスに留まらなければならなかった。それでも、2002年になり、世間の騒々しさを横目で見ながらイギリス、フランスへとバイクを走らせた。それから大西洋側を南下し、さらにモロッコへ渡り、1か月間モロッコを旅した。しかし、サハラ砂漠を少し走ったところで自分の限界を知り、スペインへ戻った。そして、地中海沿いを東に向かい、トルコまで行った。トルコからさらに西へは行かず、地中海沿いを南下してロードス島からクレタ島へと渡った。
このあたりから私の迷走が始まった。この時には「これは旅なのだろうか」という思いが強くなっていた。自分のやっていることはすべてなんとなくであり、これでいいのかと懐疑的になっていたのだ。旅が始まって8か月が過ぎようとしている。ベネチアには行きたかったので、ギリシャからイタリアへフェリーで渡った。そして、オーストリアのウィーンには、エゴン・シーレの絵を観るためだけに行った。その日その日の「気分次第」「出逢い次第」で、自分の動きが決まった。
地中海の旅が終わる頃から、私は「旅の中に生活がある」ことに違和感を抱き始めていた。それは「旅の中に生活がある」ことを続けてきたことでしか分からない。旅が非日常である限り、ひとつひとつの出逢いが新鮮であり、それらの出逢いに心動くのだが、旅が日常になりそれがしばらく続くと、物事への感じ方が変わってくることに私は気が付いたのだ。
旅が日常になった時、生活が非日常になるのかと言えばそうはならない。私は出口のない袋小路に閉じ込められていくようだ。それが苦しくて1年後、私は「旅の中に生活がある」生き方を止め、日本に戻った。
そして1年間、私は日本の日常にとっぷりと浸かった。するとまた、旅への思いが心の中にふつふつと湧き上り、それが次第に大きくなり始めてきたのだ。私は、自分の気持ちに正直に従うことにした。私は再び、北南米縦断バイク旅に出かけたのだ。
2003年6月、2回目の旅の出発地はアラスカだった。ブルックス山脈の麓から南米チリのサンティアゴまでの3万数千キロ、10か月に及ぶ旅は、私の旅を決定づけた。私の旅は、やはり、旅を日常にしてはダメなのだ。旅はあくまでも非日常の世界であり、興奮する場でなければならない、結果的にはそのように判断せざるを得ない旅だった。
北南米縦断バイク旅も10か月が過ぎた頃、私の中で旅が旅でなくなりそうになった。それに呼応するように私のバイクも悲鳴を上げた。どうも電気系統がおかしい、エンジンが止まりそうな気配だ。私は日本に戻ることにした。