「女優」まで消し去るのか! 言葉狩りという弾圧から自由を守るための狼煙を上げよう【宝泉薫】
が、それでは「女優」でありたい人がないがしろにされることになる。じつは先日「週刊女性」がこの問題をとりあげた際、コメントを求められ、こんな話をした。
「50年後、100年後には『昔は女性の俳優を女優と呼んでいた』なんて振り返る時代になるのでしょう。ただ、川上さんや土屋さんのように女優という呼称を肯定している人たちもいるので、その人たちの声を潰すようなことがあってはいけないと思います」
未来について悲観的なのは、このところの世の流れがそういうものだからだ。看護婦は看護師に、スチュワーデスはキャビンアテンダントに、呼び方が変わり、さらには本来、男性に付けられるものだった「氏」が女性にも付けられるようになって「女史」や「嬢」は使われなくなってきた。デヴィ夫人が死んだら「夫人」も消えるかもしれない。
そんななか、マイナンバーカードの新しいデザイン案がデジタル庁から発表された。性的少数者への配慮から性別の記載はなくす方針だという。他に氏名のローマ字表記を加えたり、生年月日を西暦表記に変えたりするつもりのようで、こちらは在留外国人への配慮だろうか。
まったくもってくだらないのは、そこにポリコレの影が垣間見えること。「政治的正しさ」とも訳されるポリコレはいまや暴走しすぎて何がどう正しいのかもよくわからないものになりつつあり、一種の文明病ともいえる。文明は何かと便利だし、一見、正しく思われがちだが、文化とは対立する。文化は多様性にあふれ、それぞれに美しくあろうとするものだからだ。
「女優」問題もまたしかり。女の役者を女優と呼ぶという、長い歴史のなかで育まれた文化を、便利で正しいとされる文明が壊そうとしている構図である。
もっとも、人によっては文化より文明が、美しさより正しさが優勢になるのは当然だと考えるかもしれない。筆者の考えはその正反対だ。文化なしでは生きていけないし、幸せにもなれない。
というのも、筆者は昔「聊斎志異」を子供向けに訳した「中国のふしぎな話」という短篇集を読み、女医萌えに目覚めた。「かわいい女医さん」という子供向けのタイトルがついた話に出てくる女医の姉妹が魅力的だったからだ。その後、大病院の娘を好きになったり、女子医大生と関わったりということを何度も繰り返しながら、女医と結婚。現在、幸せな家庭を築くことができているのは、女医萌えのおかげである。
それとともに、女優萌えという傾向もあり、それは女医と女優が似た存在だからだ。どちらももっぱら男がやってきた仕事を女がやるようにもなったことで生まれた呼び方。いわば「紅一点」的な特別感が反映されている。