クーデターを起こした鎌足の最期
飛鳥最大の政変〝大化の改新〟 第2回
■最高権力者・蘇我氏が滅亡し、中大兄皇子と鎌足の時代へ
蘇我氏滅亡から一夜明け、皇極天皇は中大兄皇子に皇位を譲る詔(みことのり)を発した。しかし、中大兄皇子はすぐにこれを受けず、鎌足に相談をもちかける。
「目上の方を差し置くのは、人の道に外れます。叔父の軽皇子(かるのみこ)に譲りなさい」
当時の皇位継承は、年齢が重要だったから、的を射た助言といえよう。中大兄皇子は、渇望(かつぼう)していたであろう皇位を断り、鎌足に従って軽皇子を推薦した。
こうしてクーデターの結果、皇位を継承したのは大本命の中大兄皇子でも蘇我系の古人大兄皇子でもなく、軽皇子(皇極の弟)だった。孝徳天皇である。
権力機構のトップは孝徳となったが、実権は皇太子となった中大兄皇子が掌握し、鎌足は新設の内臣(うちつおみ)となった。内臣の鎌足には、中大兄皇子の補佐役としての活躍が期待されたようだ。
中大兄皇子を中心とした新政府は、それまで慣れ親しんだ奈良・飛鳥の都から難波宮(なにわのみや)(大阪市)に遷都(せんと)を決断。この地で政治改革を次々と断行した。その後の律令(りつりょう)国家の指針となる「改新の詔」が発表されたのもこの場所だった。
しかし、ほどなく孝徳と中大兄皇子らとの間に深い確執が生じてしまう。そして651年、中大兄皇子は皇極や孝徳の妻らを引き連れ、孝徳ひとりを残して飛鳥へ遷都してしまった。失意の孝徳は、難波の地でさみしく死んでいった。
孝徳の跡を継いだのは皇極だった。史上初となる2度目の「即位」(厳密には即位は1度目のみ)から斉明(さいめい)天皇となる。
中大兄皇子が即位し、天智(てんじ)天皇となるのは、母・斉明天皇の死から7年後のことだった。クーデターからは20年以上の月日が経過していた。
天智の即位を見届けて肩の荷が下りたのだろうか、翌年、鎌足は病に臥せってしまう。心配した天智は、鎌足の家に見舞いに駆けつけ、やさしく声をかけた。
「仁義にあついものを助けないわけがない。何でも望むとおりにしよう」
しかし衰弱した鎌足の返答は、謙虚そのものだった。
「私のような愚か者に、何も望むものはありません」
当時の人は「昔の哲人(てつじん)の名言にも匹敵する言葉だ」とささやきあったという。
それでも天智は鎌足への恩義にどうしても報いたかったのだろう。翌日には鎌足の家へ使者を派遣し、大織冠(たいしょくかん)の位階と藤原の姓を与えている。
その翌日、鎌足はついに息を引き取った。中大兄皇子とともにクーデターを成功させ、まさしく二人三脚で国家をつくり上げた生涯だった。
以後、1000年におよぶ藤原氏の栄光は、はじめて藤原氏を名乗った鎌足に始まったのである。