「潔癖社会」純度上昇中【森博嗣】新連載「日常のフローチャート」第22回
森博嗣 新連載エッセィ「日常のフローチャート Daily Flowchart」連載第22回
森羅万象をよく観察し、深く思考する。新しい気づきを得たとき、日々の生活はより面白くなる――。森博嗣先生の新連載エッセィ「日常のフローチャート Daily Flowchart」。人生を豊かにする思考のツール&メソッドがここにあります。 ✴︎BEST TIMES連載(2022.4〜2023.9)森博嗣『静かに生きて考える Thinking in Calm Life』が書籍化(未公開原稿含む)。絶賛発売中!
第22回 「潔癖社会」純度上昇中
【少しの汚れも許せない善良な人たち】
既に90年代後半くらいから、「なんだか、みんなが潔癖症になったみたいだ」と感じていたけれど、当時は、「少々不気味だな」くらいの感覚だった。「潔癖」というのは、「神経質」と同様に、どちらかというと悪い意味で使われる場合が多いだろう。「綺麗好きすぎる」という意味だが、この「すぎる」が今では褒め言葉になり、「潔癖」も同様に良い印象になったかもしれない。潔癖な人が多数派になったからだろうか。類似のものに、「完璧主義」があって、本来は揶揄する表現だったのに、今では自慢したり褒め称える言葉になっている。
今は使われないかもしれないが、「泥臭い」という表現がかつては使い勝手が良かった。意味は「田舎くさい」とか「やぼったい」といったところだけれど、これを「現実的」かつ「実質的」というようなポジティブな意味で使っていた。実際、田舎の道路は舗装されていないし、雨でも降れば靴は泥まみれになった。最近では、舗装されていない道路なんて、かなり珍しい。ワイルドな道はもう「道路」とはいわないのかもしれない。
たとえば、「清濁併せ呑む」という言葉があって、僕の父がよくこれを語った。「度量が大きい」と解釈できる言葉だ。少々の濁りを気にしていてはいけない。トータルで評価しろ、といったところか。これが今では「そんな汚いものを飲むなんて信じられない!」と炎上するだろう。
これらの変化は、前回書いた「綺麗事」の話と関連する。社会は裏表のないクリーンな方向へ進んでいるらしい。以前は、裏社会があって当然だったから、汚れたものも認めざるをえなかった。今は、汚い部分があってはならない、と多くの人(特に若い世代)が感じているようだ。正しくないことを見過ごせない、ちょっとした悪事でも許せない、といった潔癖社会に近づいているように見受けられる。
このようなクリーンな社会への欲求が強くなってきた理由として考えられるのは、汚れていることがわかるようになったから、つまり可視化されたからだろう。悪い部分、いけないこと、これはどうかと思われるものを、かつては個人が知るだけ、それを誰かに話すだけで終わってしまった。話を聞いた人は、「そういうのってあるよね」と同調しつつ受け流したものだ。しかし、今はそれらが写真や動画で公開される。排除すべきものは、晒すべきだ、との認識が一般的になってきた。だから、目撃した個人も、黙っていてはいけない、告発しなければ、と考えるようになった。こうして、潔癖社会が純度を増す。大衆が「潔癖」で団結しようとしているようにさえ見えてしまうのである。
KEYWORDS:
森博嗣 極上エッセィ『静かに生きて考える Thinking in Calm Life』
✴︎絶賛発売中✴︎
★森博嗣先生のBEST T!MES連載「静かに生きて考える」が書籍化され、2024年1月17日に発売決定。第1回〜第35回までの原稿(2022.4〜2023.9配信、現在非公開)に、新たに第36回〜第40回の非公開原稿が加わります。
世の中はますます騒々しく、人々はいっそう浮き足立ってきた・・・そんなやかましい時代を、静かに生きるにはどうすればいいのか? 人生を幸せに生きるとはどういうことか?
森博嗣先生が自身の日常を観察し、思索しつづけた極上のエッセィ。「書くこと・作ること・生きること」の本質を綴り、不可解な時代を見極める智恵を指南。他者と競わず戦わず、孤独と自由を楽しむヒントに溢れた書です。
〈無駄だ、贅沢だ、というのなら、生きていること自体が無駄で贅沢な状況といえるだろう。人間は何故生きているのか、と問われれば、僕は「生きるのが趣味です」と答えるのが適切だと考えている。趣味は無駄で贅沢なものなのだから、辻褄が合っている。〉(第5回「五月が一番夏らしい季節」より)。