秀吉、家康にも受け継がれた驚異の先進性&デザイン力
天下人信長が築いた城の集大成・安土城 第3回
天下統一を目指す過程で、最もTPOに適した場所に城を移していった信長。先進かつ合理的だった移転の狙いとは? 歴代の居城をたどってみる。
安土城築城のために駆使された技術は、当時あった日本古来の伝統技術の最高峰を極めたものであったことには間違いがない。
しかし、これらはすべて純和風であり寺院建築からの応用であった。おそらく、京や大和、近江の地を手中に収めたからこそ出来た信長の創造物だったと考えられる。
家臣の屋敷でさえ、屋敷内にはきらびやかな襖絵(ふすまえ)や金具で飾り立てた御殿が建てられた。安土山は累々と屋敷で埋められ、その頂に信長の居所としての本丸、天主が建てられた。庶民が暮らす農村に突如として新興住宅地とシンボルタワーが出現したのである。さぞかし、当時の人には驚いたに違いない。
信長が極めた築城のひとつのスタイルは、こののち、豊臣秀吉に受け継がれ、徳川家康から江戸時代300年を経て、なお、変わらぬ城の姿として、日本の中で定着していく。そのデザイン性は、すぐれたものであった。(続く)
●安土城データ
城の種類/山城
所在地/滋賀県蒲生郡安土町
築城年/天正4年(1576)
施設/天主、本丸、二の丸、三の丸、摠見寺、家臣の屋敷など
安土城築城のために駆使された技術は、当時あった日本古来の伝統技術の最高峰を極めたものであったことには間違いがない。
しかし、これらはすべて純和風であり寺院建築からの応用であった。おそらく、京や大和、近江の地を手中に収めたからこそ出来た信長の創造物だったと考えられる。
家臣の屋敷でさえ、屋敷内にはきらびやかな襖絵(ふすまえ)や金具で飾り立てた御殿が建てられた。安土山は累々と屋敷で埋められ、その頂に信長の居所としての本丸、天主が建てられた。庶民が暮らす農村に突如として新興住宅地とシンボルタワーが出現したのである。さぞかし、当時の人には驚いたに違いない。
信長が極めた築城のひとつのスタイルは、こののち、豊臣秀吉に受け継がれ、徳川家康から江戸時代300年を経て、なお、変わらぬ城の姿として、日本の中で定着していく。そのデザイン性は、すぐれたものであった。(続く)
●安土城データ
城の種類/山城
所在地/滋賀県蒲生郡安土町
築城年/天正4年(1576)
施設/天主、本丸、二の丸、三の丸、摠見寺、家臣の屋敷など
文/木戸雅寿(きど・まさあき)
1958年神戸市生まれ。奈良大学文学部史学科考古学専攻卒業。広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、滋賀県安土城郭調査研究所を経て、現在滋賀県教育委員会文化財保護課。専門は日本考古学。主な著書に『よみがえる安土城』(吉川弘文館)、『天下布武の城 安土城』(新泉社)等。