貴重! 現存稀な実戦用兜
名将甲冑大全 第10回
大内義隆(おおうちよしたか)は永正4年(1507)に周防(山口県)で生まれている。父は周防・安芸・石見・豊前・筑前・六か国の守護大名である大内義興(よしおき)である。亨録2年(1529)に父の跡を継ぎ、出雲の尼子氏と抗争を続けるかたわら一方では、公家を保護し、京の文化に憧れ山口に大内文化の華を咲かせた。しかし、陶晴賢(すえはるかた)の謀反により長門大寧寺(ながとたいねいじ)で自刃している。
この兜は大内義隆所用と伝える室町時代末期の現存稀な実戦用遺品である。鉢裏には「春田光定作」の銘がある。春田光定は、室町時代末期頃に奈良に移住し活躍した春田派の甲冑師で名工として名高い。春田派は奈良を正系として、室町時代末期から戦国時代にかけて活躍している。奈良を本拠地とするが、紀州・駿河・周防にまでも赴いて製作している。
本品の兜は、極めて薄い鉄板十六張を鋲留めにして作られた阿古陀形鉢(あこだなりばち)で、表面に透き漆をかけ錆留めとしている。しころは鉄地二枚の板革毎形式で、表は金箔押、裏は金革張りで吹き返しには六曜文を透している。眉庇は古式で、前立には木彫金箔押の烏天狗を付す。
咽喉輪(のどわ)は鉄地黒漆塗りの馬蹄形で二段の垂れが付く。咽喉輪は小具足に属し咽喉を守るもので、後世には咽喉鎧、首鎧とも俗称した。古くは涎懸(よだれかけ)といい、鉄製のものを涎金といっている。咽喉輪が変化した曲輪(ぐるわ)というものもある。兜・咽喉輪ともに、製作当時のままで残されている遺品は極めてまれなケースである。