戦も遊びのように楽しんでいた? 無邪気な性格だった武田信玄
歴史上の人物を四柱推命で鑑定! 第2回
今回は、戦国最強と呼ばれる騎馬軍団を率いた戦国きっての武将、武田信玄を鑑定する。
武田信玄(1521-1573)
生年月日:大永元年11月3日(和暦)
西暦1521年12月11日(グレゴリオ暦)
それでは、命式表を見ながら鑑定していく。
■武田信玄の本質は磨けば磨くほど輝く宝石タイプ
・日柱の干支(かんし):「辛亥」(かのとい)
「冬」の「宝石」を表す。まさに美しく繊細なイメージ。感性が鋭い人物だったのかもしれない。同様に「辛亥」を持つ芸能人として、SMAPの草彅剛やAKB48の渡辺麻友がいる。「辛」の人は、他の人よりも少し困難に直面する場面が多いが、磨けば磨くほど輝く宝石のように、諦めずに努力を続ければ続けるほど輝けるタイプ。信玄は、生まれながらにして父親である信虎と反りが合わず、21歳の時に、信虎を駿河へ追放している。また、その後、村上義清に二度も敗れた経験がある。若年期は苦労の連続であり、その苦労があったからこそ、戦国最強の騎馬軍団と呼ばれるまでの武将になったとも言える。
次に、通変星(つうへんせい)・蔵干通変星(ぞうかんつうへんせい)・十二運星(じゅうにうんせい)を用いて性格を見ていく。
■武田信玄はおおらかで明るく、無邪気な人だった!?
・主星「食神」:おおらかで明るい、遊び好きの星。私が思い描いてきた、眼光するどい武田信玄からはほど遠いイメージである。子どもっぽい性格を持った無邪気な人物だったのだろうか?戦上手として知られるが、戦を一種の遊びのように捉え、楽しんでいたのかもしれない。また、十二運星に「長生」を併せ持っているが、この組み合わせは「口にすることは信用される」星。武田二十四将で知られるように、家臣団からの信頼が厚く、特にその一言一言に家臣たちは心を打たれていたのであろう。
・自星「正財」(せいざい):最も真面目な星。コツコツ努力型で慎重派。金運、結婚運があり、家庭的なタイプ。安定志向が強い星で、これもまた我々が描く信玄のイメージとは遠いように感じる。
・「劫財」(ごうざい):欲しいものはどんな手を使っても手にいれたい、向上心が強い星。まさにライバルがいることで成長できるタイプであり、宿敵・上杉謙信によってその才能が花開いたと言っても過言ではない。
・「比肩」(ひけん):頑固で意地っ張り、そして負けず嫌い。勝負事に相当なこだわりを持っていたことは間違いない。
・「印綬」(いんじゅ):習得本能が強く、とっても頭のよい星。「風林火山」を旗印にする等、信玄が「孫子」の兵法を習得し、戦に用いていたことは知られるが、中国から伝来した兵法書を参考にしながら、合戦の基本陣形、いわゆる「武田八陣」を考案したとも言われている。その頭のよさと知識を踏まえ、論理的に戦を構成していたことだろう。
・「沐浴」(もくよく)「死」:「沐浴」は自由気ままで、外の世界への関心が強い星。「死」は霊感が強く直観で動くタイプ。甲斐は四方を山に囲まれ海がないが、海外との交易に強い関心を持ち、自身の直観を頼りに、駿河や越後に攻め込んでいったのかもしれない。
ちなみに、今回の鑑定結果について、高家武田家第16代当主、武田邦信氏に見解を伺ったところ、「確かに、おおらかで遊び好きな部分があったのかもしれない。家族、側室皆を連れて下部(しもべ)温泉に湯治に行った記録が残っている。また、軍議では全員の意見を大切にするというおおらかな部分もあったが、反対にその軍議の決定事項を破ったものに対して厳しい部分も持ち合わせていた」とのことだった。
おおらかな性格と厳しい性格とを併せ持ち、いわゆるアメとムチを使い分けていたからこそ、人を動かし、戦国最強の騎馬軍団を指揮することができたのかもしれない。
古代中国で生まれた「過去、現在、未来」を予見する運命学のひとつで、陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)をもとに、人が生まれながらにして持っている性格、能力、素質を理解し、その人の努力や経験で変わる後天的な運命までも予測することができる。
具体的には、生まれた日(生まれた年・月・日・時間)をもとに命式表(めいしきひょう)を作成し占っていく。
ここでは、「国史大辞典」に記載されている生年月日を、「和洋暦換算事典」を用いてグレゴリオ暦に換算し鑑定している。
日柱の干支:その人の本質を表す重要な部分
主星(しゅせい):月柱の蔵干通変星で、その人を表す最も重要な星。主に仕事運を表す。
自星(じせい):日柱の蔵干通変星で、その人のプライベートな部分の性格を表す重要な星。