週刊文春の「名誉毀損ビジネス」を糾弾する【村西とおる】
『ありがとう、松ちゃん』より
■松本人志を裏切ったタレントたち
中でも上沼恵美子さまは松本人志氏との長いお付き合いのあるお立場であり、「M-1グランプリ」でも審査員を務める程の深い仲でございました。なのに週刊文春で人生相談のコラムをスタートさせた、との事情からか、身も蓋もないほどに松本人志氏をこき下ろした掌返しのその姿勢に、人生相談を引き受ける器量など微塵も感じることはできませんでした。
TBSサンジャポでデーブ・スペクター氏は「松本人志氏は危機管理能力に欠けている」と批判しました。ドブに嵌まっている人間の上からツバを吐くごときその無慈悲な言動は実に不快なものでした。ならばとデーブ・スペクター氏ご自身がどのような優れた危機管理能力の持主であるか、私の「X」で次のようにご披露したのです。
「サンジャポでデーブ・スペクターさまが松本人志氏を『危機管理能力がない』とナジったが、大阪から東京への新幹線の中で、隣の席の黒木香嬢にチ〇ポを屹立させ『シャブって』と富士山が見える地点までオネダリしたのはお前さまでは? キレイゴトを言う勿れ、覚悟を持って話せよ、埼玉出身の電波芸者クン」
するとアッという間に1000万程の閲覧数となったのでした。これまで故なき抑圧への「怒り」が私の行動の源泉となってきました。かつてエロ事師となった折に「自由な表現」を抑圧されることに抗い、前科7犯を重ねましたが、日本人は恥毛をみたら色情狂になるとばかりに輸入雑誌の女性ヌードの下部を黒くマジックで塗り潰す差別の恥辱に耐えられなかったのです。
■無視された「ジャニーズ問題」と「オウム真理教事件」
1988年、ジャニーズ事務所のタレントだった北公次氏がジャニー喜多川氏から「芸能界のデビュー」を条件に、10代の頃から性虐待を受けていたことを告白しました。死のうとして二度自殺を計った、と涙ながらに訴える北公次氏を眼前にして、ならばジャニーズに戦いを挑んでやると、北公次氏の告白本や告白ビデオを製作、発売しました。周囲からはジャニーズ帝国に逆らうなんて、気でも触れたのかと反対されましたが、来るなら来いと突き進んだのです。
それから10年後、週刊文春がこのジャニー喜多川氏の未成年少年への性虐待報道をしましたが、北公次氏の一件に就いては全く触れることがなかったのでした。昨年、再びこの問題に週刊文春は火をつけ問題提起をしましたが、同じように北公次氏の件については記すことはなかったのです。
1990年、そのころ行方不明となっていた坂本弁護士一家の犯人は、オウム真理教と考え、有明の2000人収容の会場で「真犯人は誰だ! このビデオが知っている〜弁護士夫妻を知りませんか?!」のアダルトビデオ発売記念イベントを開催し、麻原尊師のソックリさんを登場させました。満員の観客席からはヤンヤの喝采が送られましたが、30社ほど来場していたマスコミは、後難を恐れてか「報道しない自由」を発動し、一切ニュースにすることをしませんでした。
その後しばらくの間は、私の事務所近くにオウム真理教の信者と思われる人たちの姿があり、事務所の電話が深夜まで鳴り響く、といった事態が起き、身の危険を感じたものです。しかし、あの時メディアが共にオウム真理教追及の火の手をあげていたら、5年後の1995年に起きた「地下鉄サリン事件」は未然に防ぐことができたものをと、残念でなりません。
■「有名税だ」と言って笑っていればそれは「明日は我が身」
今回、週刊文春が報じた松本人志氏の「恐怖の一夜」についても、文春自身が認めているように、確たる客観的証拠もないのに「報道の自由」に名を借りた「活字の暴力」であると考えます。
芸人のプライベートな飲み会の出来事を「事件」として立件されている訳でもないのに12週にもわたって犯人呼ばわりして叩くとは、看過できない松本人志氏に対する「人権への暴力」です。そして今日、松本人志氏は休業をやむなくされ、主戦場であるテレビでの活躍の場を失いかけています。
「忖度せずにテレビ出演を続けていたら」との声がありますが、「汚名を着せられたままおめおめと、どのツラさげてテレビに顔を晒すのか」は松本人志氏の美意識、と認識します。多少のスキャンダル報道は有名人の有名税だから笑って済ませばいい、との考えもありましょう。が、以前松本人志氏は別の週刊誌に「無理やりやられて、毛ジラミをうつされた」との記事を掲載されたことがあります。
これに対し松本人志氏は
「抱き上げられベッドにドリャーッ」(オレの家にベッドはない)
「お酒を勧められ」(オレは酒が飲めないし、もちろん置いてない)
と反論したのです。(松本人志著『遺書』より)
が、今回のケースでは事情が違いました。松本人志氏は結婚し、目の中に入れても痛くないほどに可愛がっている中学生の一人娘がいます。
人の親であり人の子である週刊文春氏でもわかる筈ですが、ここで「有名税だから」などとは娘の名誉のためにも見逃すワケにはいかないのです。命を懸けても守るべき存在を持つ人間は、何をも恐れることなく無敵なのです。
週刊文春の名物編集長であった花田紀凱氏は「記事が誤りであったら同じページ数を割いて訂正記事を掲載すべき」と述べておられますが、現在の週刊文春編集部にはそうした良識を見ることができず、何事もなかったようにスルーしています。一度書かれた側はダメージを払拭できずに社会活動を自粛せざるを得ない破目に陥るのに、です。
■「表現の自由」の名によってなされる自殺行為
提起したいのは松本人志氏のように、あくまでも私的なプライベートな飲み会でのことをあることないこと面白おかしく肴にされ、いたぶられ叩きのめされる極悪非道を著名人だからといって受け入れなければならないのか、ということです。こんな馬鹿げたことを文春砲はいつまで続けていくのでしょうか。そのせいで何も悪いことをしていない有為の人材が風評被害の犠牲者となり、社会的に抹殺されることがいつまで許されるのでしょうか。
尊重されるべき人権が、表現の自由を仮装した「文春砲」になぶられている事実は、人間性への冒涜というべきことです。
私たちに保障されている「表現の自由」の自殺行為です。政治や経済に大きな影響力を持つ権力者でもない松本人志氏という「奇跡のような才能を持つお笑い芸人」を標的にし、12週に及んで「地獄に落ちろ」とばかりに「文春砲」を撃ち続けてきた「表現の自由」なるものが、いかに私たちの言論空間を貧しく、狂気の沙汰にしているかを訴えたく存じるのです。
「上納システムのアテンド役」とされた小沢一敬氏が姿を消している現況に胸が締め付けられる思いです。社会正義や言論メディアの使命感など少しも考えることなく、売らんかなの為には何でもありの、矜持なき狂った「文春砲」のターゲットにされ、心ならずも地平線の見える砂漠のど真ん中に放り出されたごとき、あてどなく、あの日あの頃は今どこに、と彷徨うかの松本人志氏の心の内を思う時、涙を禁じ得ません。
〈『ありがとう、松ちゃん』より構成〉