「あなたの価値は生産性にあるのではない」アドラー心理学を研究する哲学者が優しく語る【岸見一郎】
『アドラーに学ぶ 人はなぜ働くのか』より #1
■何もしなくても
新約聖書の『マタイ福音書』にも『マルコ福音書』にもなく、ただ『ルカ福音書』にだけ記録されているイエスのエピソードがあります。
一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
ドイツの神秘主義者であるエックハルトが「観想的生と活動的生とについて」という説教の中で、この箇所を取り上げて解釈しています(『エックハルト説教集』)。マルタは、マリアが「幸福感」の中に立ち止まって先に進まなくなることを怖れたとエックハルトはいっています。時に働くことではなく、立ち止まること、立ち止まることが必要なことがあります。
晩年、認知症を患っていた父の介護をしていました。介護といっても、一日の大半は、これといったことをしていないで過ごすことが多かったので、ただ父の側にいるだけでは何も父の力になれていないと思いました。
次第に父は食事の時間以外は寝ていることが多くなりました。その間、私は自分の仕事をすることができたので、父の世話をするために時間を取られるよりもありがたかったというのは本当ですが、ただ一緒にいるだけではたして介護をしているといえるのかと思い悩みました。
もちろん、父が起きてくればすることはいくらでもありましたし、こんなことを思ったのは、父が寝ている間や、起きていてもぼんやりと過ごしている間だけのことでした。ある日、私は父にいいました。「一日、寝ているのだったらこなくてもいいね」父は思いがけずこう答えました。「そんなことはない。お前がいてくれるから私は安心して眠れるのだ」たしかに私も心筋梗塞で倒れた時、退院後昼間一人で過ごしている時に不安だったことを思い出しました。じっとそばにいるだけでは駄目だと思うのは、価値を生産性でしか計らない社会の常識にとらわれているからなのです。
文:岸見一郎
〈『アドラーに学ぶ 人はなぜ働くのか』より構成〉
- 1
- 2