職人肌のプロレスラーから“おふざけ路線”へ転身!田口隆祐が語る「自由」への挑戦
■変化の時代を生き抜いた実力派レスラー
帰国した田口は、憧れだったエル・サムライとタッグを結成し、IWGPジュニアタッグ王座を獲得。2007年には第52代IWGPジュニアヘビー級王者となった。デビュー5年目での戴冠はかなりの早さだが、田口の人気は爆発せず、「通好みのプロレスラー」という評価だった。
当時の新日本プロレスは過渡期だった。「冬の時代」と呼ばれる時期を脱しつつあり、新たなファン層も獲得しようとしていた。
それは「プ女子」(※8)の存在だ。
当時のプロレスファンは、年齢を問わず男性が大半。後楽園ホールでは「しっかりしろ!」「つまんねーぞ!」という野太い声が鳴り響いていた。
しかし、棚橋弘至を中心に実力と人気を兼ね備えたイケメンレスラーが登場するや、彼らを応援する「プ女子」が後楽園ホールに集結し、黄色い声援が聞かれるようになったのだ。
「キャーキャーという声が飛ぶようになったのを覚えています。時代も少しずつ変化していったのだと思います」
その波に乗ってスター街道を驀進したのが、田口のタッグパートナーであるプリンス・デヴィット(※9)だった。
田口は田口の道を地道に進んだ。2008年1月に古傷だった首を負傷、20kgのベンチプレスのバーを持ち上げるのも困難だったが、リングに上がり続けた。
デヴィットと田口のタッグチーム「Apollo55」は、2009年にジュニアタッグ王座を獲得。同年に開催されたヘビー級のタッグリーグ戦である「G1タッグリーグ」にも参戦し、準優勝という成績を残す。
そして2010年に「Apollo55」と飯伏幸太(※10)とケニー・オメガ(※11)の「ゴールデン・ラヴァーズ」との対戦で、プロレス大賞のベストバウトに選ばれた。ジュニアヘビー級のタッグマッチが選出されたのは史上初の快挙だった。
2012年には悲願の「BEST OF THE SUPER Jr.」を制覇。
しかし盟友だったデヴィットが田口を裏切り、タッグは解散。田口は、第三腰椎神経根引き抜き損傷の疑いで長期欠場に追い込まれた。
不屈の田口は怪我からまた立ち直り、敵対関係になったデヴィットとのシングルマッチに勝利。因縁に決着をつけた。デヴィットは新日本プロレスを退団し、WWEへと移籍。一報を聞いた田口は次のように語った。
「もし次に目の前に現れたら、それは僕とデヴィットの第2章となる」
この後、田口は自身のプロレスラー人生第2章をスタートさせることになる。
※8 プ女子:女性プロレスファンである「プロレス女子」の略
※9 プリンス・デヴィット:新日本プロレスのロス道場に入門したプロレスラー。新日本退団後は、世界最大のプロレス団体「WWE」へ移籍をして現在も活躍している
※10 飯伏幸太:アメリカのプロレス団体「AEW」所属のプロレスラー。「天才」と呼ばれ数々のベルトを巻いてきた。甘いルックスで女性ファンも多い
※11 ケニー・オメガ:アメリカのプロレス団体「AEW」のプロレスラー兼副社長。カナダのインディー団体からDDTへ参戦し、新日本プロレスへと移籍をした