過激フェミニストとアベガーの残念すぎる共通点と「なりたくなかったあれ」騒動
それぞれに合った生き方ができるようになった日本で納得できない人たち
■不遇なのは世の中のせいだという被害者意識
そういえば、昨年暮れ、ネットのインタビューで元女子アナの小島慶子がセクハラについて語っていた。彼女は最近、バラエティ番組の収録などで「セクハラポリス」をやっているそうで、タレントたちの気になる言動を見たら注意して、反省させるらしい。自分で「ポリス」と言うところにも勘違いを感じるが、聞き捨てならないのはこの発言だ。
「正直、みんなが心を入れ替えたわけではないと思うんですよ」
いったい、何様のつもりだろう。最近、行政と萌え絵のコラボ事業などが批判されることが増えたが、それもこうしたニセポリスたちの仕業だ。
厄介なのは、そのスタンスがエスカレートしがちなこと。ハイヒールなどの着用義務に抗議する運動で世に出た石川優実は最近こんなことを言っている。
「私は特にこの1年、Twitterで『怒る練習』をしてきました。(略)私は『これには怒らなければいけない』と思ったツイートに対して、大げさに語気を強くして怒ります。自分が普段日常で使う言葉の、10倍は強くしていると思います」
本人いわく「怒ることに慣れていない」「差別的な発言に対して反射的に反論することができない」という自己分析からの「練習」らしい。ただ、批判者としょっちゅうトラブっているところを見るともう、成果は上がりすぎている印象だ。
一方「アベガー」はというと、芸人や作家などの参加が増えている。前者ではウーマンラッシュアワー村本や松尾貴史、ラサール石井、立川雲水といったところが知られ、後者には島田雅彦、平野啓一郎、中沢けい、乃南アサらがいる。
このうち、前出・北原以上の下品さで首相の持病を揶揄したのが立川だ。引用がためらわれるほどの内容で、削除し、謝罪したが、兄弟子の立川志らくまでとばっちりを食った。似たことを言っていた過去を掘り起こされ「私も昔総理のお腹の事を揶揄したことがある。当時は難病だとは知らなかった」と言い訳をするハメに。
かと思えば、島田は作家らしく、辞書をもじってこんなツイートをした。
「あべしんぞう【安倍晋三】:恥知らずで、支離滅裂で、知性も良心も欠落していて、漢字が読めない、子供の教育には不適切な人物のこと」
本人はしたり顔かもしれないが、こんなリプをつけられていた。「それは子供の『お前の母ちゃん、デベソ』のレベルですよ」。たしかに、かつて純文学の未来を担うと目された作家にしては、幼稚なレトリックだ。
こうしたアベガーのつらいところは、笑いのセンスや文才があまり感じられないと、芸人のくせにとか作家のくせにとかすぐに言われてしまうことだ。本業に専念して、売れている同業者にしてみればまさに「なりたくなかったあれ」だろう。
フェミニストにしても、またしかり。世界におけるジェンダーギャップ順位の低さとやらを錦の御旗のように振りかざし、その順位を上げるためには国会議員の男女比率を半々にすべき、などと主張しているが、蓮舫や辻元清美を見て、自分もああなりたいと憧れる女性がどれほどいるだろうか。肉体労働をもっぱら男がやるのと同じで、女性議員の少なさは男女それぞれの向き不向きの反映である。あの順位の低さは、まさにジェンダーギャップに合わせた役割分担がしっかりとできている成果でもあるわけだ。
もちろん、なりたい人がなる自由は保証されている。そのうえで、男と女、LGBT、つまりは人それぞれに合った生き方がわりとできるようになっているのが、今の日本だ。
といっても、納得できない人はいるだろう。そして、自分が不遇なのは世の中のせいだという被害者意識から「フェミニスト」や「アベガー」になったりもする。それも個人の自由だが、たとえば「なりたくなかったあれ」と呼ばれたときに謝罪までさせるのはやりすぎというものだ。
要は、なりたくない人にはならないという「他人の自由」を認め合うゆるさ。それが大事なのではと「なりたくなかったあれ」騒動は再認識させてくれる。
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