第4回:「流行語 バカだとバレたくなくて言えない」「自分の名前 画像」
<第4回>
9月×日 【流行語 バカだとバレたくなくて言えない】
まだ一度も「じぇじぇじぇ」と言ってない。
今年の流行語大賞確実の「じぇじぇじぇ」。言いたい、すごく言いたい。
もう、のどちんこのあたりまで「じぇじぇじぇ」が出かかっているのがわかる。
老人は餅をのどに詰まらせて死ぬが、僕は「じぇじぇじぇ」をのどに詰まらせて死にそうな勢いだ。早急に吐き出さなくてはならない。
なのに、なぜだろう。まだ一度として「じぇじぇじぇ」を生活の中で使えていない。
「じぇじぇじぇ」だけではない。
「ワイルドだろ〜?」や「いつやるの?今でしょう!」や「親父の屍をまたごうぜ!」や「犬も喰わねえ顔してんな」など、いままでにあまた登場した流行語たち、まあ後半ふたつは自分で勝手に作った流行語なわけなんだけど、それら流行語たちも口にできたためしがない。
こんなにも、言いたいのに。言えるタイミングはいくらでもあったのに。
なぜ言えないのか。それには理由がある。
言いどきのタイミングが訪れた瞬間に「さあ!いまから『じぇじぇじぇ』と発するぞ!」と気合を入れるわけだが、ふと頭に「安易に流行語なんて使ったら、バカだと思われないだろうか・・・?」という不安がかすめるのである。
僕は他人に「バカ」なことがバレるのがなにより嫌いな生き物である。
できるだけ知的な人間に思われたい。
「なんかあの人、コーヒーのマグカップ片手に革新的なプロジェクトをプレゼンしてそう」
「なんかあの人、新薬の研究をしていそう」
「なんかあの人、リンゴが落ちているところを見ただけで万有引力を発見しそう」
そう思われたい。
しかし悲しいかな、現実の自分はコーヒーをすぐこぼし、新薬治験のバイトにすぐ手を出し、路上に落ちてるリンゴをすぐ拾い食いする、そういうバカな人間だ。
流行語を連発する。これはどう考えても頭の良さそうな行為ではない。
僕は、頭が悪いことがバレたくない。だから、とてもではないが人前で流行語は使えない。でも言いたい。狂おしいほどに、言いたい。
同じ苦しみを抱えた仲間たちはいないものかと「流行語 バカだとバレたくなくて言えない」でグーグル検索。
いない。全然、仲間がいない。
大手掲示板で「今年の流行語は『いつやるの?今でしょう!』で決まりだよね〜」「は?なに言ってんの?まだ半年も残ってるし。バカじゃん?」「バカって言うほうがバカだし」「って言うお前がバカだし」という、まるで便所の落書きのようなやりとりをしている人たちはいたが、バカだと思われたくなくて流行語を使うことを躊躇している人たちはネットの中には見当たらなかった。
これはつまり、こういうことではないだろうか。
流行語を使いたくても使えない僕のような人種は、きっと一定数いる。でも、その人たちはなんせ「バカだと思われること」をなによりも嫌っている。
だからネットで「自分はバカなんだけど、バカだとバレたくないから流行語は使わない」なんてことをわざわざ公表する人など、いないのではないか。
この現実世界にも、ネットの世界にも、バカはたくさん溢れている。
しかし悲しいかな、プライドだけは高くて、自分のことを客観視するときだけは頭をフル回転させる「中途半端なバカ」の本音は、いつでも消えゆく運命にある。
「中途半端なバカ」「75%のバカ」「バカがチャームポイントになっていないバカ」。
そういう類のバカに、僕は同類としての愛おしさを感じている。
でも、その愛を声にはださない。
バカだとバレたくないから。
9月×日【自分の名前 画像】
朝、目覚めてFacebookを開くと、タグ付けされていた。
なんだか「朝、目覚めると巨大な虫になっていた」的な、カフカの「変身」的な書き出しになってしまったが、まあ巨大な虫になっていたケースよりかはいくらかマシとはいえ、Facebookに勝手に自分の写っている写真がタグ付けでアップされているというのも、なかなかに気分が悪い。
Facebookのタグ付け機能は、中学校における「修学旅行の写真を廊下に貼りだす風習」のスケールが大きい版だと思う。好むと好まざるとに関わらず、さも当然のように自分の顔が無許可のうちに他人に公開されてしまう。しかも、名前と共に。これはとても怖いことのように思う。
なにもお高くとまれるような顔などしていない。「爪を噛んでいそう」「鉛筆を噛んでいそう」「三角定規のはしっこを噛んでいそう」、そんな顔をしている。
だからひとこと、「写真を公開してもいい?」と聞いてくれれば、それでいい。快く承諾するだろう。
というか、基本的には目立ちたい欲求の塊みたいなところがあるので、どんどん自分の写真をアップしてほしい。この自分のはにかんだ笑顔を、全世界に発信してほしい。そんな想いすらある。
でも「無許可でタグ付け」だけは、かんべんしてほしい。
半目で写っていたら、どうするんだ。
歯茎が妙に覗いていたら、誰が責任を取るんだ。
自分の左肩のうしろにだけ女性の霊が写りこんでいたら、誰か今晩一緒に寝てくれないか?
自意識というのは、実にやっかいだ。この肥大した自意識があと半分減ったら、Facebookとも良い関係が築けるというのに。
いまのところ、Facebookには傷つけられてばっかりである。
そういえば、Facebookだけではなく、ネットにはいまどのくらいの「自分」の写真が載っているのだろう、と気になり自分の名前を入力して画像検索をした。
すると、もう何年も前に撮った、気取ったポーズで大した気になって写っている、死ぬほど恥ずかしい宣材写真が躍り出てきた。
思わず即座にブラウザを閉じた。
ネットとは、「悪意の落し物センター」である。
*本連載は毎月第1・第3水曜日に更新予定です。