マッカーサーの運命を決定づけた演説があった
マッカーサーとGHQの戦後改革とアメリカのポピュリズム(後編)
右と左のポピュリズムの奇妙な邂逅
一方で、マッカーサーが自らの使命を遂行していくにあたっては、アメリカが20世紀前半に達成した「革新主義」と「ニューディール」という「左」の成果が惜しげもなく利用された。マッカーサーの思惑としては、後に大統領候補として立候補する際に、日本占領統治における迅速な改革という功績を掲げたいという思いもあっただろう。
だが、以前の記事(「ポピュリズム」が絶対悪だと言い切ることはできない)でも見たように、「革新主義」「ニューディール」といったアメリカの「リベラル」な改革運動の源流には、1890年代にアメリカ中西部の農民が中心となって行われた急進的改革運動である「ポピュリズム」がある。
1896年と1900年のアメリカ大統領選挙で共和党の大統領候補であったマッキンリーに対して、民主党の大統領候補として戦ったのは、この「ポピュリズム」の運動に支援された若き雄弁家ウィリアム・ジェニングス・ブライアン(1860~1925)であった。対外的に愛国主義に基づいた「右」の「ポピュリズム」と、貧困に苦しむ農民、労働者からなる「左」の「ポピュリズム」が対立し、争っていたのが、世紀転換期のアメリカであった。
この左右の「ポピュリズム」は、さらに遡れば19世紀前半におけるアンドリュー・ジャクソン大統領(1767~1845)時代の「ジャクソニアン・デモクラシー」による、大衆への参政権拡大と西部へのフロンティア拡大という、共通の「根」を持っている。
現代でも日本の枠組みの基礎となっているマッカーサーとGHQの戦後改革は、19世紀末から20世紀前半にかけてのアメリカの「右」と「左」の「ポピュリズム」が、歴史の偶然から「ジャクソニアン・デモクラシー」以来の邂逅を果たし、融合を遂げたものでもあった。
西部開拓期のアメリカ中西部で「左」の「ポピュリズム」が芽吹いた頃、マッカーサーはやんちゃな少年として、西部の荒野を駆け回っていたことだろう。青年期のマッカーサーは、当時花開いていた「右」の「ポピュリズム」の風潮に大きな影響を受け、さらなるフロンティアであるフィリピンへ向かった。一方、「左」の「ポピュリズム」はやがて、農民から都市の労働者や知識人へと受け継がれ、主にアメリカ東海岸で花開くこととなる。
そして、数十年を隔て、様々な曲折を経た末に、「左」と「右」の「ポピュリズム」の種子は、マッカーサーとGHQの「ニューディーラー」たちと共に、焼け野原の日本へと降り立ち、根を下ろして、再び芽を吹かせたのである。
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