旧秩序から新秩序へ:「敗戦」というチャンス
角栄とその時代 その1:敗戦
土建屋でも政治家になれる時代へ
田中角栄が生まれた年は、1918(大正)7年、敗戦の玉音放送を「朝鮮(理研ピストンリング工場の移設工事請負)」で聴いた時は、1945(昭和20)年。当時、27歳。まさに戦中派世代であった。角栄と同世代=「大正生まれ」の男子は約1348万人。そのうち約200万人近くが戦死する(1/7の戦死率)という悲劇の時代を乗り越え、角栄は生き残ったのである。高等小学校を卒業後、早くから「土方(どかた)」として働き、19歳で自ら「土建屋」を経営した角栄は、1943(昭和18)年には「田中土建工業株式会社」を設立。年間施工実績全国50位以内にランクする中堅の土建屋ではかなりの優良企業だった。
そして、1945(昭和20)年8月、敗戦を体験。もちろん角栄も1939(昭和14)年に陸軍騎兵隊として戦地に出征しているが、生き残っている。また前述した朝鮮からは終戦の11日目にはなんと日本に戻っている。さらに事業を始めた東京の飯田橋では、ほとんど空襲の被害も受けなかったのである。
さらにさらに、戦争、敗戦へと道筋をつけた指導層が公職追放され、さらにさらにさらに占領軍による「新憲法」の公布(1946/11/3)、公布(1947/5/3)がなされたのである。
「個人的な敗戦に対する思いはわかりませんが、角さんにとって、敗戦はチャンスだったんでしょうなあ」と平野貞夫氏は語る。
このような混乱期に、事業を続ける「原資(お金などの資産)」があり、封建的な身分秩序が新憲法によって改正され、しかも旧秩序の指導層が「強制退場」。この時、角さん27歳の男盛り=若さもあった。
角栄が、この時から27年後に北京で会うことになる中国の国家主席、毛沢東の言葉にいい仕事ができる条件として「若いこと、無名であること、貧乏であること」を述べているが、まさに角栄にとってはその3条件が「結果的」にすべて揃っていたのである。
平野氏はそんな角栄にとってさらに大きな「推進力」を与えたものとして、「新憲法=日本国憲法」をあげる。
平野氏「角さんは、新憲法の申し子だったんです」
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