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京の信長 旧二条城と旧本能寺

鈴木輝一郎 戦国武将の史跡を巡る 第23回

岐阜在中の歴史作家・鈴木輝一郎がゆるりとめぐる、戦国武将の史跡。
つい見落としてしまいがちな渋い史跡の数々を自らの足で訪ね、
一つ一つねぶるように味わい倒すルポルタージュ・ブログシリーズ!

 このコラムのテーマは、「岐阜に住んでいる歴史小説家が地元の戦国の史跡をご案内」ってことなんですが、まあ、たまには、ってことで京都。
  二条城と本能寺は織田信長の当時から移転しているので、その現地踏査です。観光名所になっている二条城とは別物です、念のため。

 永禄12年(1569)、15代将軍足利義昭が織田信長の留守中、三好三人衆や斎藤龍興らに襲撃される事件が発生しました。明智光秀らによって難をまぬがれたものの、信長は要塞の必要性を痛感し、三ヶ月ほどで「二条御殿」と呼ばれる城をつくりました。
 場所は京都市烏丸下立売。現在の京都御苑の脇。現在は平安女学院大学の敷地の角に『旧二条城跡』の石碑が立てられています。市バス『烏丸下立売』または市バス『烏丸下長者町』。ネットで地図を検索する場合には、『平安女学院大学入学センター』でさがしてください。

 

 本能寺の変のとき、信長の長男、織田信忠は妙覚寺に宿をとっていたのですが、本能寺の変のしらせをきいて、明智光秀を迎撃すべく二条城へ立てこもりました。ただ、明智光秀もかなりの合戦巧者です。織田信忠もまた、奮戦むなしく戦死します。
 本能寺はこの本能寺の変で焼失し、天正17年(1589)に再建される際、豊臣秀吉の命令で移転しました。

 まあ、そんなことなんで、旧二条城から旧本能寺へ、徒歩で──行こうとしましたが、くじけました。「戦国の武将になるためには健脚が必須」とは、この連載当初から痛感していましたが、旧本能寺と旧二条城のあいだは本当に遠い。
 ちなみに旧本能寺の場所はけっこうマニアックな模様で、京都のタクシーの運転手も場所を知らなかった。現地に行く場合には、地図をプリントアウトして持参することをおすすめします。ちなみついでにこの「旧本能寺跡」の石碑を地図で探すのも、けっこうたいへんです。『京都市立堀川高校本能学舎』で検索をかけてください。住所は『京都府京都市中京区元本能寺南町346』。

 

 ついでながら、この『旧本能寺跡』の石碑の隣には、『本能消防分団』の器具庫があります(実は『旧本能寺跡』で探すよりも『本能消防分団』で検索をかけたほうが早い)。

 

 年末に取材したので、「年末防火運動」の期間。ポスターには、「育てよう 火災を出さない 防火の意識」と書いてあった……
よく見ておけ明智光秀(笑)

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鈴木 輝一郎

すずき きいちろう

作家

1960年岐阜県生まれ。小説家。歴史小説『浅井長政正伝』『戦国の凰 お市の方』など著書多数。2008年には著作が50冊に達した。

日本推理作家協会・日本文藝家協会・日本冒険作家クラブ会員。


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