「決戦すること、それ自体が目的」謙信VS信玄、第四次川中島合戦の真実
謙信vs信玄 川中島合戦の真相(上)
武田軍の海津城入り
ここで謎かけである。なぜ、武田軍は必勝の包囲陣を解除して海津城に入らなければならなかったのだろうか。また、どうして上杉軍は武田と対峙しておきながら無二の決戦を挑まなかったのだろうか。その答えは、武田軍が海津城に入った二十九日付の上杉政虎書状と、『軍鑑』の内容を読み返せば、難なく見つかる。
『軍鑑』によれば、先に政虎が関東で連合軍十一万余を率いた際、越軍本隊は一七〇〇〇人で、川中島出陣の越軍は一三〇〇〇人だったという。ということは川中島出兵時、越後には四〇〇〇人の兵が残されていたはずである。いや、もっといただろう。政虎が関東で戦っている間も越後本国の兵は、信濃割ヶ嶽や越後小田切に押し寄せる武田軍と交戦しており、相応の兵数が留守として置かれていたと想定されるからである。
これでまず、政虎が無二の決戦に逸らなかった理由がうかがえる。妻女山で信玄を引き付けている間に、越後本国から予備兵を呼び出し、武田軍を挟撃しようとしたのである。そして八月二十九日、この作戦に気づいた信玄は、まるでシェルターへ避難するかのように、急ぎ海津城へ駈け入ったのである。
証拠となるのが、同年八月二十九日付の政虎書状である。これは越後本国の留守を預かる長尾政景に宛てたもので、「越中の人質を油断するな」、「もし会津衆・大宝寺衆が来たら西浜や名立を守らせよ」と越中方面への備えを命じている。他国からの援軍に本国を防衛させるなど、普通は考えられないことだが、越後の兵が全てどこかに動かされていたとすればその限りではない。
越後から迫る増援と、妻女山の政虎本隊に挟撃されてはたまらない。さりとて撤退するわけにはいかない。それゆえ、布陣から六日目、信玄は移動を決断した。
(『上杉謙信の夢と野望』より構成)