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地形から「演繹」してみると歴史が面白くなる

季節と時節でつづる戦国おりおり第281回

 演劇ではありません、学校で習った演繹法ですな。そう、結論からさかのぼって一般的な法則などを見いだす、というやつ。帰納法とペアで教わりましたが、こういうものがちゃんと理論的にあやつれたらもう少し説得力のある文章を書くこともできるんでしょう、などと冒頭から自虐してみます。

 それはさておき、先日ちょっと取材の関係で堺の旧市街から少しだけ南に行った石津川のあたりに足を延ばして参りました。まずは写真をご覧下さい。

 

 石津川は泉ヶ丘の丘陵地を源流とし、堺の近くで百済川を合流させて大阪湾に注ぎ込む川で、この写真は下流側の北岸から上流を眺めたもの。『和泉名所図会』の挿絵を見ますと、現在よりも川幅が広く流れも荒々しい感じです。
この北岸側の土地の写真が、次のもの。

 

 右奥の「賢明学院」のある高台との高低差をご覧下さい。その下は、現在は公園となっていますが、かつては藤谷池という池でした。石津川の氾濫などで出来たものだったのでしょうか。

 

 これも同じく北岸側ですが、手前はかつて石津川の流路で現在は道路となっています。ここもこれだけの高低差が。
 このあたりを高い側から見るとですね。

 

 ドーーン。こんな感じで絶景が広がっています。
 見晴らしの良い高低差。そしてその麓を流れる石津川。この組み合わせを見ますと、商売柄ムクムクと「戦場にもってこいだよね」という思いが。
 たしかにそうなのです。南北朝時代、南朝方の北畠顕家が北上して来るのを、北朝方の高師直が迎撃したのがまさにこの石津川あたり。下流の南岸側、太陽橋のたもとには顕家の供養塔が残っていることでわかるように、この石津合戦は高所を占めて石津川を天然の堀とした師直が勝利を収めています。

 でもそれだけなのかな? 戦国時代にも、ここで戦いがあっても不思議じゃないな、と調べてみると、戦いではないですがその前段階がありました。それは、慶長20年(=元和1年、1615)の大坂夏の陣の前哨となる樫井合戦の際で、豊臣方の部隊が石津に布陣しています。『大坂御陣覚書』によれば大野治長配下の宮田平七に、槇島昭光・昭重父子と赤座永成が加わっていたとありますが、槇島・赤座は冬の陣では300余騎(1200人ほどか)で堺を襲撃し、大坂城では9000の兵の指揮者でもありますから、少なくとも2~3000の兵がこのあたりに展開したのではないでしょうか。

 残念ながら(?)この地で戦闘がおこなわれることはありませんでしたが、やはりこの絶好の地形を無視する訳はない、と思った通り。いや~、地形って本当に面白いですね。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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