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“伊藤博文の片腕”の卒論は「源義経=チンギス・ハン説」だった

「源義経北行伝説」の謎 第7回

長い逃避行を終え、奥州平泉の高館で非業の最期を遂げた義経。しかし、東北から北海道に至る各地には、死んだはずの義経が立ち寄ったという伝説が数多く残っている。時に英雄として、時に悪人として、時に女性を惑わす色男として、様々に残る「北行伝説」の実像に迫る!

義経が最期を迎えた、持仏堂の跡地に立つ「高舘義経堂」

明治から大正期にかけての
ベストセラーとなった義経伝説

 近代以降には、義経=ジンギスカン説が「伝説」を新たな局面へと導くことになった。明治12年(1879年)、後に政治家となり伊藤博文のもとで内務大臣を勤めた末松謙澄がケンブリッジ大学の卒業論文として、「征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物也」を書き上げた。当時のヨーロッパでは日本が中国の属国ぐらいの認識であったことを憂えての著述だったという。明治18年、慶応義塾の学生だった内田弥八は、末松の英語論文を邦訳し『義経再興記』として出版、これがベストセラーとなった。
 内容が内容だけにアカデミズムが受け入れなかったのは当然ながら、大衆には広く受け入れられて一大センセーションを巻き起こしたのである。

 大正13年、小谷部全一郎による『成吉思汗ハ源義経也』も一世を風靡した。大陸を踏査したうえでの著作というのも大きな特徴であるが、国内の伝説については地方の新聞社や地元の郷土史家を巻き込んで収集にあたるなど、独特の調査方法がとられていたようである。刊行するやこれもまたベストセラーとなった。

 

 末松や小谷部の説にアカデミズムからの反論がなかった訳ではない。明治29年、徹底した実証主義者で「抹殺博士」として名高い重野安繹は『学士会院雑誌』誌上で義経の平泉生脱を完全否定したし、また小谷部に対しては、大正14年に雑誌『中央史壇』が『成吉思汗は源義経にはあらず』と題して特集を組み、国史、東洋史、考古、民俗、国文、国語・言語の各学会の研究者により大々的に反論してもいた。
 しかし、大衆の耳目を集めはしたものの、小谷部説を封殺するまでには到らなかった。所詮土俵が違いすぎる論争であった。小谷部はその後も『成吉思汗は源義経也 著述の動機と再論』『満州と源九郎義経』『義経と満州』を次々と刊行し、持論の普及に努めている。

 注目すべきは、それらの著作のなかで義経の北行ルートが示されている点であろう。平泉からモンゴルに到る経路を一本の線で結んだのはおそらく小谷部による新たな試みであったろうが、それは期せずしてその後の「北行伝説」のありように大きな変化をおよぼすこととなった。

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千葉 信胤

ちば のぶたね

1962年、平泉文化遺産センター館長、岩手大学客員准教授。共著に『源義経流浪の勇者』所収「子どもの本と義経」(文英堂)、『義経展』所収「源義経の生涯」(NHK)『東アジアの平泉』所収「平泉民俗余話」(勉誠社)などがある。


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