瀬戸内の海賊・村上水軍は決して悪人ではなかった!?
シリーズ「瀬戸内海と河内王朝を地理で見直す」②
海賊山賊は優しい人たちだった!?
『万葉集』巻1‐8は、額田王の潮待ちの歌だ。
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
斉明7年(661)、朝鮮半島の百済は一度滅び、復興の狼煙を上げたが、唐と新羅の連合軍の前に、風前の灯だった。ヤマト朝廷に救援要請があり、斉明天皇は遠征軍を率いて九州に向かう。その途中、熟田津(愛媛県松山市。道後温泉近くの港)で、一行は潮待ちをしていたのだ。
すでに述べたように、多島海の潮の流れは速い。潮に逆らって航海することはまず不可能で、逆に、潮に乗れば、労力なく先に進むことができる。瀬戸内海での潮待ちは、常識だったのだ。
これは余談だが、斉明天皇は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)周辺でさかんに土木工事を行い、百済遠征を断行していて、近年政治手腕に関して評価が高まっているが、このとき実権を握っていたのは、子の中大兄皇子と思われる。斉明天皇以下、多くの女性たちが九州に同行しているのは、遠征に反対している勢力を牽制するための人質だろう(拙著『新史論/書き替えられた古代史』小学館新書)。
ところで、あまりにも潮の流れが速く、複雑だったため、瀬戸内海には、海賊が現れた。よくいえば水軍。悪くいえば、海賊だ。村上水軍が、代表的な存在だ。
村上水軍=海賊は、けっして悪い人たちではない。通交する船に近づき、
「大山祇神に捧げるお賽銭、あなたの代わりに、われわれが屋代島大山祇神社(芸予諸島)大三島と瀬戸内の島々、大三島にお届けいたしやしょう」
と、もちかけるのだ。
「神様祀らないと、大変なことになりますよ。バチが当たっても知りませんよ」
と、丁寧に教え諭すのだ。
これが脅しに聞こえるあなたは、心がねじ曲がっている。だってそうではないか「お賽銭、代わりに持っていってさし上げましょう」と、親切心で語りかけているのだから……。
これに応じた船には、「お賽銭払ってます(直接にこう書いてあるわけではない)」
という目印の旗を貸し出す。この旗の効力は絶大だった。周辺の海の民たちが、通交を妨げない。黙認してくれる。ところが、旗を立てない船を見つけようものなら、寄ってたかって、痛めつける。天罰を喰らわしてやるのだ。現代風にいえば、「フルボッコ」というヤツだ。これが、いわゆる海賊の所行である。
預かったお賽銭はどうなるのだろう……。そんなことを詮索するのは野暮というもの。もちろん、神社に預けますよ。海賊たちは、お賽銭奉納代行業者と呼ぶのが正しいのだ。そして、神からご褒美、おこぼれを頂戴するという次第。
山賊も、ほぼ同じシステムで食いつないでいたのだ。むやみやたらに、襲いかかって強盗をしていたわけではない。そんなことしていたら、すぐ、お縄になってしまうではないか。彼らは、もっと賢かった。私的な関を造って、通行料、もとい、お賽銭をもらい受けていたわけだ。その代わり、神に成り代わって、旅の安全を見守り、ときに、賽銭をちょろまかそうとする不逞の輩を懲らしめたわけである。
(『地形で読み解く古代史』より構成)