もてはやされる三王朝交替説
シリーズ「瀬戸内海と河内王朝を地理で見直す」⑤
崇神天皇、応神天皇、継体天皇の三つの政権が登場したという説
大阪の古代史といえば「河内王朝論」が有名だ。河内に巨大前方後円墳が造営された時代、新王朝が河内に登場したというのだ。河内の歴史と地理を知るために、この推理について、説明しておく必要がある。
さて、江上波夫は、朝鮮半島西南部に進出した騎馬民族は、百済を建国し、4世紀初めに北部九州にやってきたと推理した。北部九州に国を造ったのは崇神天皇で、その後応神天皇が河内に移り、新たな王朝をうち立てたと考えた。これに対し考古学者の佐原眞は、考古学が進展した結果、たしかに日本列島に騎馬民族的な文化が移入されたことは確かにしても、4世紀初めの北部九州に、騎馬民族による征服があった痕跡はなにもないし、五世紀のヤマトの突発的な古墳文化の変化も証明できないと反論した(『騎馬民族は来なかった』日本放送出版協会)。
こうして、騎馬民族日本征服説は下火になったのだ。
しかしその一方で、征服者が日本を蹂躙したという発想は、戦後史学界に強く影響を及ぼした。たとえば水野祐の三王朝交替説が華華しく登場し(『日本古代王朝史論序説』早稲田大学出版部)、多くの史学者に支持され、三王朝交替説を軸に、古代史が語られてきたのである。
三王朝交替説は、三つの血縁関係にない王家が、次々に君臨したという。なぜ三つの王家の歴史が残らなかったかというと、8世紀の朝廷が「万世一系」による社会秩序の基本的な姿を求めたために(二度と王朝交替をしてはいけないということだろう)、『日本書紀』の中で、「王家は入れ替わることはなかった」と記録したというのである。
まず、三世紀初頭、崇神王朝が、既存の司祭的な王をいただくヤマトの「先王朝」を継承した。これが「古王朝」で、呪術に支えられた王朝だった。先王朝は、仲哀天皇の時代に滅びる。仲哀天皇は九州征討を敢行するも、「魏志倭人伝」に描かれた狗奴国の末裔に敗れた。狗奴国は熊襲たちの国で、日向に4世紀ごろ国を造り、4世紀後半には東に移り、ヤマトを征服し、第18代仁徳天皇が「中王朝」をうち立てた(水野祐は第15代応神天皇と仁徳天皇を同一と考えている)。これが「中王朝」で、特徴は、河内に巨大古墳を造営したことだという。
そして、最後に、大伴氏が6世紀初頭に越(北陸)から継体天皇を連れてきて擁立した。これが「新王朝」で、今日につづく王家が誕生したというのだ。
三王朝交替説をわざわざ説明したのは、三王朝交替説が、重要視されたこと、中王朝が河内王朝とも呼ばれ、「河内王朝論」が、大いに議論されたからだ。
多くの学者は、崇神天皇、応神天皇、継体天皇の三つの政権が登場したことに関しては、認め合っている。ただ、細かい部分になると、意見を異にする。そして、おおよそ、四つの考えに収斂された。
1. 騎馬民族か九州の勢力がヤマトに移動した(江上波夫、井上光貞)
2. 征服されたわけではなく、河内土着の勢力が成長し、王朝を開いた(岡田精司、直木孝次郎)
3. 三輪王朝が衰退し、その後河内の勢力が王朝を建てた(上田正昭)
4. ヤマトと河内の有力部族が王朝を築き、権力の中心地が河内に移動した(笠井敏光、白石太一郎)
どの説も、纒向に興ったヤマト黎明期の王朝は衰退し、あるいは滅ぼされたという考えで固まったのだ。
(『地形で読み解く古代史』より構成)