「東を恐れる西」。そして京都の歴史が始まった
シリーズ「瀬戸内海と河内王朝を地理で見直す」⑰
鍵を握っていたのが県犬養三千代(あがたいぬかいみちよ)
それにしても、なぜ聖武天皇は、藤原の血を引いていながら、反藤原派に転向したのだろう。地理と地形の古代史とは関係ないように見えて、この後大きな意味を持ってくるので、簡単に説明しておこう。
最大の理由は、光明子の母・県犬養三千代にあった。県犬養三千代は夫と子がありながら、藤原不比等のもとに嫁いでいった。そして藤原不比等の希望通り、後宮を支配していくのである。県犬養三千代という存在がなければ、首皇子の立太子もむずかしかっただろう。そこで県犬養三千代は「やり手の女」とみなされているが、夫や子の命を守るために、藤原不比等にいやいや従っただけだ(拙著『東大寺の暗号』講談社)。藤原不比等に逆らえば夫の命はないと踏んだのだろう。
藤原不比等と県犬養三千代の間の娘が光明子で、一般にこの女性も「藤原の天下を築いた鉄の女」のイメージで語られるが、それは表向きの話であって、光明子は「藤原不比等の娘」を演じながら、仮面の下に「県犬養三千代の娘」という素顔が隠されていた。藤原氏全盛時代は、藤原氏のために働き、ひとたび藤原氏が没落すると、その正体を現した。夫・聖武天皇に、藤原氏がしでかしてきた悪行をすべて教え、聖武天皇に「天武天皇の子」の自覚を芽生えさせたのだろう。だから聖武天皇は、東国行幸を敢行したにちがいない。
この、聖武天皇と光明子の存在意義が分からなかったために、8世紀以降の歴史も、誤解されていたのだ。
藤原氏が最も恐れていたのは東国だった。政敵の蘇我氏が、東国と強く結ばれ、東海の雄族・尾張氏も、蘇我氏を後押ししていたからだ。それを、聖武天皇は分かっていたのだ。
藤原不比等は和銅3年(710)に平城京を造営したが、この時旧豪族を代表する物部氏も追い落とし、ほぼ実権を握った。新益京(藤原宮)から平城京に移るとき、左大臣(今風にいえば総理大臣)石上(物部)麻呂を旧都の留守役にして捨て去ったのだ。
藤原不比等や藤原氏の手口は陰険で、藤原氏に楯突く者、いうことを聞かない者は、容赦なく葬り去った。だから、多くの人々は藤原氏を恨み、平城京に移ったのちも、「飛鳥にもどりたい」と言い続け、古き良き時代を偲んだ。
藤原氏(その中でも北家、摂関家)はこののち平安時代にかけて、「欠けることのない満月」と豪語するほどの力を得て、他者を圧倒する。また、「錐を突き刺す土地もない」と批判されるほど、日本各地の土地を私物化していった。本来律令の規定では、土地の私有は許されなかったが、律令の抜け道を利用して、藤原氏は私腹を肥やしていったのだ。
その間、彼らは都で変事が起きると、必ず東に向かう3つの関を閉めた。これが、三関固守だった。そして、謀反人が東国に逃れ、軍団を率いて戻ってくることを、阻止したのである。
この「東を恐れる西」という図式は、思わぬ副産物を産み出していく。それが、長岡京(京都府向日市、長岡京市、京都市にまたがる)と平安京遷都だ。西にはめっぽう強いヤマトは、もはや必要なくなったのだ。そして、東に対抗しうる都が求められた。こうして、京都の歴史が始まっていく。
地理と地形の裏側に、思わぬ歴史が埋もれていたのである。
(『地形で読み解く古代史』より構成)