人は死んだらどうなるか、に意味はない。ドイツ人禅僧の考え
今日を死ぬことで、明日を生きる④
日本仏教に魅せられたドイツ人禅僧、ネルケ無方の新刊『今日を死ぬことで、明日を生きる』より、珠玉のエッセイを紹介。生きるヒントが必ず見つかります。
「死後の世界」はわからなくてもよい
人は死んだらどうなるのか、それは私にはわかりません。釈尊(お釈迦様)も、死後については説いていません。仏教には「六道(ろくどう)」(天道、人間道、修羅(しゅら)道、畜生(ちくしょう)道、餓鬼(がき)道、地獄道)というものがありますが、これは厳密に言えば、仏教以前のバラモン教やヒンズー教の考え方です。
六道では、いま私たちが生きているこの人生が、はじめてでもなければ、おわりでもないと考えます。「この世に生まれる前に別の命があり、死んだあとにもまた別の命がある」としているのです。
それは今生の行いによって、再び人間として生まれることもあれば、天道へ行けることもある。悪い行いをすれば修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道に落ちることもあるというものです。
ただし、仮に天道で生まれ変わったとしても安心はできません。天道にしても、地獄道にしても、どの世界にしても、永遠にその世界にいるわけではなく、また寿命があります。地獄道から這い上がることもできます。
漫画家・手塚治虫(てづかおさむ)が描いているように、亀だったものが鶴になったり、鶴が人間になったり……。命は巡り巡ってつながっている。それが輪廻転生の考え方です。
「この人生が最後であってほしくない。もう一回生まれ変わってやり直したい」と思うかもしれませんが、「お前は永遠にこの人生という名のゲームをやり続けなければいけない」としたら、きついでしょう。永遠では耐えられないというのが輪廻の考えです。
ですからインド人は、「涅槃(ねはん)」を目指します。涅槃とは吹き消された状態のこと。
つまり、この連鎖から離れ、消えてしまいたいわけです。
ところが、多くの日本人は輪廻転生を信じていないようです。お盆にはあの世からご先祖様が帰ってくると思っていますし、亡くなったおばあちゃんが生まれ変わり、いまは犬として生きているなどと思っている人はまずいないでしょう。
私も「六道」のような生まれ変わりは、納得できないものがあります。
たとえば私が死んだら、何か別のひとつの生き物になるのではなく、「私の一部が植物になったり、一部が動物になったり、一部が人間として生まれ変わる」というのであれば、まだ理解できます。
私がそっくりそのまま、どこか違うところで生まれ変わるのは、ちょっと想像しにくいのです。
そもそも、仏教の教えでは「諸法(しょほう)は無我(むが)である(諸法無我)」、つまり「すべての存在には実体がない」と言っています。
人間には実体もなければ、魂もないということになります。
いくら死後の世界を語っても、納得のいくものはありません。そこにあるのは、一人ひとりが信じたい死後の世界ではないでしょうか。
釈尊は死後の世界を語らず、「どう生きるか」を語り続けました。その語らなかったことの真意を大切にしていきたいものです。
仕方がない。
来世より、
今生を大切に生きる。
『今日を死ぬことで、明日を生きる』より 次回は『老いることも、死ぬことも、人の役に立つ』⑤です。