息子と弟の犠牲のおかげで、戦後大名に返り咲いた山口重政 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

BEST TiMES(ベストタイムズ) | KKベストセラーズ

息子と弟の犠牲のおかげで、戦後大名に返り咲いた山口重政

季節と時節でつづる戦国おりおり第287回

大坂夏の陣・八尾若江の戦いを歩く⑤

前回はこちら:大坂夏の陣・八尾若江の戦いを歩く④

 木村重成の墓がある幸公園を後にして目の前の第二寝屋川を対岸に渡ります。ここから先は八尾市から東大阪市。すぐ正面が若江南墓地で、その中を左側へ入って行くと…

 亀の基壇の上に立つ大きな墓碑。これは山口重信という人物のお墓です。重信は大久保忠隣の失脚の巻き添えとなって改易された重政の子で、お家再興をめざす父とともに井伊直孝の軍勢に陣借り(臨時に指揮下に入れてもらう)して若江の戦いに臨み、結果子の重信と弟の重克が戦死しました。この犠牲のおかげで、重政は戦後大名に返り咲きます。

 ここから第二寝屋川の北岸を東へ。1km近く歩くと、目の前に面白い光景が。

 第二寝屋川に対して直角(つまり南から北へ)に滝のように流れが落ち込んでいます。
 橋の名前「たまくしばし(玉串橋)」が示すように、この流れは玉串川。かつては玉櫛川と呼ばれる大きな川で、長瀬川とともに旧大和川の本流でした。大和川付け替えや第二寝屋川開削と、歴史の流れの中で小さな流れとなり、ここから南の方では桜並木の花見の名所となり、ここから北では

こんな地味~な水路に。
 ですが、昔は平安時代の歌人・源師光(みなもとのもろみつ)が
「はなちての 通(とおり)の川の 朝ぼらけ 堤向かいに 舟呼ぶは誰」
と詠んだように、通川=玉櫛川は離れた対岸の堤で舟を呼んでいる人物が誰か見分けられないほど川幅が広かったといいます。
 それほどの大河ですから、両岸の堤は洪水防止のため大規模なものでした。その堤に拠って幕府軍を迎撃したのが、重成だったのです。

KEYWORDS:

オススメ記事

橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


この著者の記事一覧