「自分らしさ」を追い求めるから辛くなる
今日を死ぬことで、明日を生きる⑨
「個性がない」というのも立派な個性
ひと昔前、「世界に一つだけの花」という歌が流行りました。多くの人が「オンリーワンの自分」を求めて、無理に他人と違う部分(=個性)を探していました。
この「自分らしさ」に価値を置く風潮は、いまでも続いているようです。
特に女性は、仕事やプライベートなど、あらゆる場面で自分をアピールすることを求められ、自らも率先して個性を演出しているはずです。
確かに一人ひとりに個性はあります。人と違う部分があるのは当然ですし、あってもいい。
しかし、「人と違うから」という理由だけで差別してはいけません。それぞれの命を尊いものとして受け入れ、認め合うことが大切なのです。
きゅうりはまっすぐの形でなければ商品になりません。ちょっと曲がったきゅうりは、はじかれてしまいます。曲がったきゅうりも分け隔へだてなく、まっすぐのきゅうりと同じように店に並んでいればよいのですが、そうすると売れ残ってしまいます。
日ごろ個性を大事にしている人が、きゅうりの個性を認めないのはなぜでしょうか。とても不思議です。
みんなと違ってもいいように、みんなと同じでもいい。そんなことで悩む必要はないのです。
さらに言えば、いくらオンリーワンの自分を追い求めても、「自分らしさ」がわからなければ、逆にプレッシャーとなります。
「世界に一つだけの花」が行きすぎ、個性があることが良で、個性がないことが不良であるように言われ続けたら、「私には個性がない。どうしよう……」という悩みが出てくるでしょう。
でも考えてみれば、「個性がない」というのも立派な個性ではありませんか。
「自分らしさ」を追い求めるから辛くなるのです。
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仏教の世界では、「自分」というものにとても懐疑的です。昨日、今日、明日の自分は、同じでなくて当たり前。天気のように移り変わっていく……。
他人とかかわることでも、自分は変化していきます。相手も同じように変化し、私たちは無数のつながりで影響し合っています。「自分」や「私」は、さまざまな要素が絡からみあって、いまこの一瞬に立ち上がる、幻のようなものです。
禅僧である私も、テレビを観たらその情報に流されたり、本を読んだら賢くなったつもりになる。しかしそれは、一杯のコーヒーで目を覚ましたり、一杯のお酒で酔ったりするようなものです。
ふだん私たちが、「自分の意見」「私の思い」と呼んでいるのは、その程度のものなのです。
アイデンティティを追い求めることを否定はしませんが、むしろ大事にすべきなのは、他者と「共感する力」ではないでしょうか。日本人はこの能力に長けているはずです。
幻想の自分らしさより、みんなと共通している部分をもっと大切にしてほしいと思います。
つながっている感覚を持つ。
『今日を死ぬことで、明日を生きる』より 明日は『「使われている」
という気づき』⑩です。