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日清戦争の勝利につながった日本軍の緻密な作戦とは?――威海衛の戦い

「鴨緑江・旅順口の戦い」と「威海衛の戦い」 日清戦争を終わらせた 2大決戦の勝因の真相 第6回

日清戦争を終わらせた2大決戦「鴨緑江・旅順口の戦い」と「威海衛の戦い」の真相に、連載形式で迫る。  

日本軍が占領した清国軍の砲台

威海衛東南の砲台を占領すると
清国兵は諸砲台を放棄して逃走

前回はこちら:160もの大砲に約2万人の守備兵……清軍の威海衛要塞攻略のキーマンはやはり“あの人物”

 威海衛攻略にはこれまで以上に陸・海軍協同の緻密な作戦が必要だった。
 明治28年(1895)1月19日、大連湾を進発した揚陸部隊は20日早朝、山東半島東端の栄城湾に達した。連合艦隊は沖で警戒行動をとりながら、陸地に艦砲射撃を加えた。海軍の陸戦隊が先陣を切って上陸。続いて第6師団、第2師団が揚陸作業を続けた。夕方には湾から10キロほどの栄城を占領、兵站地(へいたんち)を兼ねた橋頭堡(きょうとうほ)を確保した。その後も輸送船で兵員や物資を揚陸し、25日には大山巌司令官が栄城入りした。

 翌26日、第2軍は約60キロ先の威海衛をめざして行軍を開始。第6師団は海岸線に近い北路(右縦隊)、第2師団は内陸の南路(左縦隊)を進軍した。両師団は清国軍と戦闘を続けながら西へと突き進み、28日、第6師団は威海衛の南岸砲台まで東南8キロ付近、第2師団は南方12キロ付近の地点に到達した。

 30日早朝、第6師団は東側から湾南岸の百尺崖方面に連なる砲台への攻撃を開始、次々に占領した。第2師団は南から攻めあがった。高地の砲台を落とした各隊は海岸沿いにある砲台へ向かい、敗走する清国軍を追撃した。
 海軍陸戦隊は占領した鹿角嘴砲台にカノン砲を設置し、湾口の劉公島砲台や付近に停泊していた北洋艦隊の艦船を砲撃。すると、巨大装甲艦「定遠」以下3隻が海岸線へと迫り、艦砲射撃を加えてきた。これによって日本軍にも多くの死傷者が出てしまった。
 この日のうちに威海衛湾の東部から南部にある諸砲台はすべて陥落。旅順と同じように清国守備隊は兵員数こそ多かったが、ほとんどは徴募されたばかりの新兵であり、士気は低い。訓練も行き届いていなかった。いったん敗走兵が出ると、たちまち戦闘意欲をそがれ、雪崩を打つように砲台から逃げだした。

◎次回は5月17日(水)に配信予定です。

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松田 十刻

まつだ じゅっこく

1955年、岩手県生まれ。立教大学文学部卒業。盛岡タイムス、岩手日日新聞記者、「地方公論」編集人を経て執筆活動に入る。著書に「紫電改よ、永遠なれ」(新人物文庫)、「山口多聞」(光人社)、「撃墜王坂井三郎」(PHP文庫)など。


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