日清戦争の勝敗を決めた“夜襲”――日本海軍が早期から重視していた「水雷艇」の動きが肝だった
「鴨緑江・旅順口の戦い」と「威海衛の戦い」 日清戦争を終わらせた 2大決戦の勝因の真相 第8回
水雷艇が威海衛湾内に侵入
8本の魚雷を放ち敵旗艦を大破
【前回はこちら:連合艦隊の真価が問われた、日清戦争「威海衛の戦い」】
水雷艇は近代的なものとしては1870年代に登場し、オーストリアで開発された魚雷を搭載することで一躍脚光を浴びた。日本海軍は巨大装甲艦は予算の関係で建造できなかったことから、早くから水雷艇に注目。明治13年(1880)にイギリスの製造会社に4隻の水雷艇(第1号型)、2年後にはオーストリアに魚雷50本を発注した。水雷学の教育にも力を入れ、明治21年(1888)に海軍兵学校が東京・築地から広島県の江田島に移転した時点で物理、運用と共に水雷の講堂が建造された。
日清戦争では第1号型は内地の警備に就き、前線にはイギリス、フランス、ドイツ製の改良型(一部国産)の水雷艇(小鷹、第5号型、第21号型、第22号型)が20隻近く配備された。
水雷艇隊は血気にはやったが、明治28年(1895)2月1日から寒波が襲来、艦艇は厚い氷に覆われ、身動きできない状態になった。連合艦隊は3日朝、ふたたび威海衛の東口沖合に進出し、そこで第2軍(第2師団・第6師団)が前日のうちに威海衛の砲台を占領したことを知った。
その夜、港口東口の防材破壊を命じられた第6号水雷艇は海岸線へ向かった。この水雷艇は5号型(5号〜19号)で排水量54トン、速力は20ノット(時速約37キロ)。艇長はのちに首相となる鈴木貫太郎大尉だった。同艇は日島砲台や哨戒艦の砲撃を受けて引き返したが、防材と海岸線の間に百メートルほどの間隙があることを司令部へ報告した。
伊東祐亨司令長官は4日、第2・第3水雷艇隊計10隻に対し、間隙を抜けて湾内に侵入し、主要艦船を襲撃するように命じた。水雷艇は5日午前3時、防材のある水域に達したが、突破できたのは半数に過ぎなかった。魚雷を発射したのは4隻で、計8本の魚雷を放った。
当時の魚雷は改良され、30ノット(約56キロ)以上で突き進んだ。もっとも、のちの日本海軍の代表的な酸素魚雷である93式(時速約96キロ)と比べればまだまだ速度も精度も劣る。このため確実に敵艦に命中させるには敵の弾雨のなかを縫って至近距離から、甲板上の発射管から発射させる必要があった、
この時点では戦果は確認できなかったが、同日午後、巨艦「定遠」が大破、座礁しているのが確認された。
翌6日早朝、第1水雷艇隊5隻が夜襲を敢行。劉公島の砲台から投じられた探照灯に照らされながら砲撃を受けるなか、3隻が7本の魚雷を発射。「来遠」「威遠」など3隻を撃沈した。
12日、提督・丁汝昌は伊東司令長官に軍師を派遣して将兵の助命と引き換えに降伏を受け入れた。その夜、丁汝昌は「鎮遠」艦内で服毒自殺を遂げた。17日、正式な降伏文書の調印が行われ、北洋艦隊の艦艇は日本軍に接収された。
ここに北洋艦隊は壊滅し、事実上、日清戦争の帰趨は決した。