源義経が「壇ノ浦の戦い」で海戦に備えて味方につけたのは、なんと……
激突! 源平合戦の軌跡 第7回
追いつめられた平家は海戦で最終決戦を迎える
安徳天皇をともない、讃岐屋島から瀬戸内海を西に向かった平氏軍は、勇将知盛が固めるもう一つの拠点長門国引島(山口県下関市彦島)に着いた。
一方、これを追う義経軍は周防国で範頼軍の三浦義澄勢らと合流し——範頼軍本隊は九州にあって平氏の逃げ道を塞ぐ戦法——、奥津(追津、下関市長府沖の満珠島)を拠点とした。
『平家物語』が「門司・赤間・壇ノ浦は、潮流が逆巻いて流れ落ちる」と記している海上の西側に平氏、東側に源氏が陣を構えたのである。なお門司は豊前国門司ノ関(北九州市)、赤間は長門国赤間が関(下関市)で、壇ノ浦は、その間、すなわち現在の関門海峡のうち、長門側沿岸付近をいう。
この壇ノ浦で源平最後の決戦が行われたのは、元暦2年(寿永4年、1185)3月24日のことであった。
もっとも、当日の時刻や双方の兵力数などについては諸書でかなり開きがある。たとえば『平家物語』によると、戦いが始まったのは卯刻(午前6時頃)であるが——終わりは記されていない——、九条兼実の日記『玉葉』は義経からの報告として、正午から申刻(午後4時頃)までのこととし、鎌倉幕府関係者の編纂した『吾妻鏡』は始まりを記さず、平氏敗北を午刻(正午頃)とするといった具合である。
また海戦のために用意された船については、源氏方3000余艘・平氏方1000余艘とする『平家物語』に対して、『吾妻鏡』は源氏方840余艘・平氏方500余艘とする。
なお源氏方の船のなかには紀伊の熊野水軍200余艘——源平両氏にそれぞれ見立てた白・赤の鶏を闘わせて占い、白が勝ったので源氏側についたという——、伊予の河野水軍150艘(以上、『平家物語』)、さらには周防国の舟船奉行五郎正利から提供された数10艘の姿も見え(『吾妻鏡』)、水軍増強の様子がうかがわれる。