日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~蘇我入鹿を斬り伏せ大化の改新をもたらした男~
日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~
入鹿の遺骸から流れる血は、降りしきる雨がよって洗い流され、庭は雨水でいっぱいになっていたと言います。その光景を哀れに思ったのか、入鹿の遺骸に筵(むしろ)や蔀(しとみ)が何者かによって掛けられたそうです。
この翌日、入鹿の父の蝦夷(えみし)は中大兄らの軍勢に屋敷を囲まれ、火を放って自害しました。
こうして「乙巳の変」は幕を閉じ、中大兄と鎌足による政変は成功を収めました。
その後、蘇我氏の権力を背景にして、中大兄と皇位を争っていた古人大兄は、出家をして大和国の吉野へ隠棲しました。しかし、謀反の噂が流れたため、中大兄に軍勢を派遣され討ち取られてしまいました。
この時、兵40人を率いて古人大兄とその子を討ったのも、佐伯子麻呂であったと言います。
この謀反を実際に古人大兄が企んだのかは不明であり、何としても古人大兄を亡き者にしたかった中大兄の謀略ではないかという見方もあります。
「乙巳の変」で大きな功績を残し「大化の改新」の一翼を担った子麻呂は、天智5年(666年)に病床に就きます。
この時、子麻呂の先が長くないと知った「天智(てんじ)天皇」は、子麻呂のお見舞いに自ら訪れたと言います。この天智天皇こそ、ご存知の通り、即位を果たした中大兄皇子でした。
天皇自ら見舞いに訪れるというのは異例のことであることから、「乙巳の変」「大化の改新」における子麻呂の功績がどれほど大きなものだったかが分かります。
天智天皇は病床の子麻呂の功績を大いに称えると共に、病に臥せる子麻呂を見て嘆き悲しんだと言います。
この後、間もなくして子麻呂は亡くなるのですが、その死後に大錦上(天武天皇の御世の官位:26階中の7位)の高位を贈られています。
そして、死後90年以上後の天平宝字元年(757年)には、律令制の功労者に給与される功田(こうでん)を与えられ、上功(4つの功の内の上から2番目)として40町6段(≒402,600㎡:東京ドーム約8.6個分)の土地が子孫に与えられ、3代に渡って伝えられたと言います。
ちなみに、佐伯子麻呂が功績を挙げたという「乙巳の変」を詳しく記した『日本書紀』は、後世に書かれたもので多大に脚色・誇張・虚構された部分があり、実は暗殺現場の大極殿が当時はなかったと言われており、蘇我入鹿の専横や中大兄皇子と中臣鎌足の活躍は事実と異なるのではないかという見方がされています。
現在、事件当時を偲ぶ遺構はほとんどありませんが、暗殺の現場となった「飛鳥板蓋宮」の跡地と言われる史跡や、入鹿の首が飛んで行ったという場所(板蓋宮から約600m北)には「蘇我入鹿の首塚」と呼ばれる五輪塔が残されています。