第33回:「旅行先でなぜかケチになる」(後編)
<第33回>
5月×日
【「旅行先でなぜかケチになる」(後編)】
(前回からの続き。「旅行先で、ものすごくケチになる」という奇癖を持つワクサカさんが、旅行先の京都でグーグル検索をしてみたら…)
この奇癖は、特に国内での旅行の際、顕著に現れる。
せっかく旅行に行くのだから、使うべくところにはお金をかけて、観たいものを観て、食べたいものを食べよう。旅の始まりは、必ずそう決意する。ところが旅先に降り立った途端に、財布の紐が、頑丈に締まる。滅多なことでは財布の口は開かなくなり、開くとしても心の中で第二認証パスワードを求められるほどである。
ケチの化け物と成り果てた自分が、旅先でいつも歩いている。
iPhoneにて「旅行先でなぜかケチになる」をグーグル検索。
いるいるいる、旅行先でなぜか出費をケチる、同類たちが。
そしてそれ以上にいるのが、「旅行先で出費をケチる者」と一緒に旅行へ出かけたことで、大変に不愉快な思いをした人々である。
僕は、旅行において、一番テンションが下がるケースは「同行者が歯を痛がる」だと思っているのだが、そうか、「同行者が出費をケチる」というケースも、こんなにも忌み嫌われるものであったのか…。
iPhoneをポケットにしまう。
心に影が差していた。
こんなケチな人間は、旅行をする資格などないのではないか?
歩き続けているうちに、龍安寺へと迷い込んだ。
龍安寺は、禅寺である。
庭園の裏手に、禅の教えが、看板に掲げられていた。
濁った目で、それを眺める。そこには、こう書かれていた。
「あなたはすでに、全てを持っているではありませんか」
その瞬間、心がサッと晴れた気がした。
ユー・ハブ・イナフ。アイ・ハブ・イナフ。
そうだ、僕は、すべてを持っている。
生きている。それだけで、すべては足りているではないか。
なにをケチることがあるというのだ。
すべてが足りているのに、小銭を惜しんで、どうするのだろうか。小銭を大事に大事に天国に持って行っても、誰も褒めてはくれないというのに。
僕は、救われた気持ちになった。
禅を用いなくちゃ解決できないほどの問題なのか、という疑問は残るが、龍安寺を出た僕の足取りは実に軽やかであった。
お金に囚われるのは、やめよう。
お金に操られていた自分を、ここで捨てよう。
京都に来て良かった、と心から思った。
龍安寺で得た悟りはその後二時間と続かず、僕はその夜、新幹線代をケチって、深夜バスで東京へと帰った。
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