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小江戸「川越」の由来は。「河越」か「河肥」、どっち!?

埼玉地名の由来を歩く⑪

「河によって肥えた土地になった」意味での「河肥」?

「河肥」の文字は市内の養寿院(ようじゅいん)にある鐘銘に「武蔵国河肥庄 新日吉山王宮」とあることで知られている。この鐘が奉納されたのは「文応元年十一月廿二日」となっており、西暦では1260年に当たる。鎌倉時代中期のことである。

 この「河肥」という文字は新日吉山王の社領である時だけ使用されており、その他の時は「武蔵国河越庄」と書かれているという。さらに『吾妻鑑』では川越の地名や河越氏の姓を記す場合は「越」の文字を使っていて「肥」の文字は使っていないとされる。

 これは『川越歴史散歩』(1958年)を書かれた岡村一郎氏の見解だが、氏の見解には示唆されるものがある。それは先に紹介した「武蔵国河肥庄 新日吉山王宮」について、次のように語っていることである。

「私の考えではこれは後白河上皇が永暦元年(1160)京都東山に創建した新日吉社に河越庄を寄進した時の荘園寄進文に、嘉字を尊ぶ習慣から肥の字をあてたのではないかと思っている」

 たぶん、この指摘は正しいであろう。奈良時代以降、地名は「好字二字」を使う傾向が強まり、単に「河を越える」意味での「河越」ではなく、「河によって肥えた土地になった」意味での「河肥」という文字に変えて寄進したであろうことは想像に難くない。

 私も以前からこの二つの説のうち、どちらが正しいのかと頭を悩ませてきた。「河越」説は、例えば大井川の「川越え」に見られるように川を渡るという行為はよくわかる理屈である。しかし、川が豊かな土砂を運んでその土地が肥えたから「河肥」という地名が生まれたというのは相当無理があると考えてきた。

 地名は通常、目に見える形状などで命名されることがほとんどだからである。岡村氏の説にのっとって、「河肥」としたのは「越」という文字に替わって「肥」という嘉字を当てたのだとすると、この疑問は解消することになる。

 岡村氏によれば、鎌倉時代は普通「河越」だが、特殊な場合にのみ「河肥」を用いた。さらに室町時代には両者を併用し、「川越」が一般化されたのは江戸時代になってからだという。──いちおう、これが妥当な解釈だとしておきたい。

『埼玉地名の由来を歩く』(著・谷川彰英)より構成〉

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谷川 彰英

たにかわ あきひで

筑波大名誉教授

1945年長野県生まれ。ノンフィクション作家。東京教育大学(現・筑波大学)、同大学院博士課程修了。柳田国男研究で博士(教育学)の学位を取得。筑波大学教授、理事・副学長を歴任するも、退職と同時にノンフィクション作家に転身し、第二の人生を歩む。筑波大学名誉教授。日本地名研究所元所長。主な作品に、『京都 地名の由来を歩く』シリーズ(ベスト新書)(他に、江戸・東京、奈良、名古屋、信州編)、 『大阪「駅名」の謎』シリーズ(祥伝社黄金文庫)(他に、京都奈良、東京編)『戦国武将はなぜ その「地名」をつけたのか?』 (朝日新書)などがある。

 

 

 

 

 

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