東京「霞ヶ関」に疑問符、本当の霞ヶ関はどこにあったのか?
埼玉地名の由来を歩く⑫
全国5位730万人もの人口を抱える埼玉県の歴史を地名で紐解く。地名の由来シリーズ最新刊『埼玉地名の由来』から、著者・谷川彰英が「霞ヶ関」の地名の由来を歩く。
東京の「霞が関」の謎
〈前回記事:小江戸「川越」の由来は。「河越」か「河肥」、どっち!?〉
川越市にはもう一つ重要な地名がある。「霞ヶ関」である。これについてはずっと昔から疑問に思ってきた。「霞ヶ関」と言えば、言わずもがな、東京の「霞が関」をまず思い浮かべる。東京の場合は現在は「霞が関」と表記しているが、これは昭和42年(1967)以降のことで、それ以前は「霞ヶ関」と表記されていた。日本の政治の中心地で、まさに役人が務める官庁街である。
それと同名の「霞ヶ関」が埼玉県川越市にもう一つある! 何らかの関係があるのか、ないのか……。地名関係者でなくても関心を寄せるはずだ。
まず本家(?)だと思われている東京の「霞が関」について調べてみよう。江戸末期に書かれた『江戸名所図会』にはこう書かれている。
霞関(かすみがせき)の旧蹟 桜田御門の南、黒田家と浅野家との間の坂を云ふ。往古の奥州街道にして関門のありし地なり
『江戸名所図会』に記された注によれば、ここにいう黒田家とは筑前福岡城藩主松平美濃守のことで、藩邸は今の外務省の敷地。また浅野家とは安芸国広島城主松平安芸守のことで、藩邸は今の厚生労働省の敷地であるという。しかし、詳細は不明といったところで、写真のように、外務省の脇の坂に「霞が関坂」という標識が建てられている。
ただし、東京のこの地に「霞ケ関」があったという説にはいくつもの疑問が寄せられている。江戸の町は徳川家康がこの地に入府してから整備されたもので、ここに旧奥州街道が通っていて、関が置かれたという証は存在しない。
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