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東京「霞ヶ関」に疑問符、本当の霞ヶ関はどこにあったのか?

埼玉地名の由来を歩く⑫

霞が関は江戸の北側だった??

『江戸名所図会』にはさらに二つの記事が括弧つきで紹介されている。

宗祇(そうぎ)法師の『名所方角抄(めいしょはうがくせう)』に、霞が関は西に高き岳(をかやま)あり。東向の所なればふじはみえず、西より河ながれたり

 とあり『名所方角抄』は江戸時代になって寛文6年(1666)に出された本だが、それによると霞が関の西には高い山があって富士山は見えず、西から川が流れているとする。これは明らかに現在の霞が関の地形からするとマッチしない。もう一つ紹介されているのは、こんな記事だ。

『武蔵風土記』に、荏原郡(えばらごほり)、東は霞が関に限るとあり。この地今は豊島郡に属せり。北村季吟翁(きぎんおう)云ふ、浮橋(うきはし)をすぎて霞村(かすみむら)といふ所、霞が関の旧地なりといへど、霞村と云ふ地名なし

 これによると、荏原郡の東境にあるといい、当時は豊島郡に属していたという。荏原郡は現在の東京都品川区・大田区一帯を指している。豊島郡は江戸時代から現在の池袋方面までの広いエリアを指していた。しかし、江戸前期の歌人・俳人である北村季吟(きぎん)(1624~1705)によれば、浮橋というところを通って霞村というところに出るが、霞村という地名はないという。

 さらに享保21年(1736)に出された『武蔵野地名考』によれば、「荏原郡霞関」といい、日本武尊が蝦夷の侵入を防ぐために関を設け、「雲霞」を隔てて遠くを望んだことから「霞関」と名づけられたという話も『江戸名所図会』には紹介されている。

 こう見てくると、現在の「霞が関」が本来の「霞ヶ関」かというと、その信憑性はますます薄らいでくる。荏原郡なら今の品川区あたり、豊島郡でも池袋方面の江戸の北側に位置していたという可能性もある。

 いずれにしても、よくわからないといった記述になっている。

『埼玉地名の由来を歩く』(著・谷川彰英)り構成〉

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谷川 彰英

たにかわ あきひで

筑波大名誉教授

1945年長野県生まれ。ノンフィクション作家。東京教育大学(現・筑波大学)、同大学院博士課程修了。柳田国男研究で博士(教育学)の学位を取得。筑波大学教授、理事・副学長を歴任するも、退職と同時にノンフィクション作家に転身し、第二の人生を歩む。筑波大学名誉教授。日本地名研究所元所長。主な作品に、『京都 地名の由来を歩く』シリーズ(ベスト新書)(他に、江戸・東京、奈良、名古屋、信州編)、 『大阪「駅名」の謎』シリーズ(祥伝社黄金文庫)(他に、京都奈良、東京編)『戦国武将はなぜ その「地名」をつけたのか?』 (朝日新書)などがある。

 

 

 

 

 

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