自分の血をひく者をなんとしても天皇に……持統天皇の執念
女性天皇君臨の系譜の謎④
日本にかつて存在した女性天皇。なぜ彼女らは女帝として立つにいたったのか? 女性天皇君臨の系譜の謎に迫る、集中連載。
前代未聞! わずか15歳の
幼帝を誕生させた持統天皇
持統天皇は夫と自分の血をひく草壁皇子がやがて即位することを、強く願っていたはずだ。そのことは、天武天皇が亡くなると、たちまちライバルの大津皇子が謀反を企てたとして死に追いやったことからも、容易に想像できる。だが草壁皇子の早逝によって、それもかなわぬ夢に終わった。
そこで持統天皇が希望を託したのは、草壁皇子の第2子の珂瑠皇子(文武天皇)だ。だがこの皇子は天武12年(683)の生まれ。即位にふさわしい30代以降になるまで、自分の寿命がつづかないことは当然、自覚していた。その年齢の制約を越えるのが、皇太子の制度だった。
持統天皇の治世を太政大臣として支えてきた高市皇子が持統10年(696)7月に亡くなると、天皇は直ちに次の皇位継承者を選定する会議を催した。そこで天皇の意をうけた葛野王が「直系」継承によるべきことを主張し、異論をはさもうとする者を叱りつけた。これよって、草壁皇子の子の珂瑠皇子が次代の継承者として定まった。
そこで翌年2月、早速、珂瑠皇子はわずか15歳で皇太子に立てられ、そのまま同年8月には持統天皇から皇位を譲られて天皇になる。第42代文武天皇だ。
これ以前、第35代皇極天皇が譲位した例がある。だがそれは、宮中での蘇我入鹿暗殺という異常事態に直面して、退位を余儀なくされたものだった。次の継承者に自発的に皇位を譲ったのは、この時が最初だ。
持統天皇は譲位後も幼い文武天皇の後見にあたった。その地位は、自らも関与した『大宝令』に「太上天皇」として制度化される。こうして持統天皇の執念によって、それまでの皇位継承のリスクは大きく後退した。