「日本とアメリカ、和人とアイヌ。平民宰相は暗殺され、天才少女は夭折した」1921(大正10)年 1922(大正11)年【連載:死の百年史1921-2020】第2回(宝泉薫)
連載:死の百年史1921-2020 (作家・宝泉薫)
死のかたちから見えてくる人間と社会の実相。過去百年の日本と世界を、さまざまな命の終わり方を通して浮き彫りにする。第2回は1921(大正10)年と1922(大正11)年。文明の交流と衝突のなかで起きた「暗殺」と「夭折」である。
■1921(大正10)年
少子化も予見した知米派、その暗殺は大きな破局の予兆でもあった
原敬(享年65)
およそ百年前、ひとりの政治家が暗殺された。平民宰相と呼ばれ、初の本格的政党内閣を組織した原敬である。
安政3(1956)年、南部盛岡藩の武士の子として生まれ、12歳で明治維新に遭遇。分家して平民となり、新聞記者や外交官を経たあと、政治家に転身した。その姿勢は極めて現実主義的で、のちの世でいえば田中角栄などに近い。利益誘導で味方を増やし、数の力で政局をリードしていくというやり方だ。
現実主義者だから外遊などで見聞を広めることを好み、それゆえ先見の明もあった。52歳のときに行なった半年にも及ぶ世界旅行で米国を訪れた際には、女子教育の充実に感心しつつ、こんな懸念を日記に示している。
「然るに当校を卒業したる女子にて結婚したる者は百人中十八人に過ぎずと云ふ。此趨勢は独り此地方に限らず、将来如何に成り行くかは問題なり」
非婚化、ひいては少子化を心配していたのだ。また、この米国滞在ではオノ・ヨーコの祖父にあたる銀行家にウォール街を案内されたり、ときの大統領、セオドア・ルーズベルトに会ったりした。その繁栄ぶりを目の当たりにした実感を通して、20世紀は米国の時代となることを確信。対米協調を政治信条のひとつとするにいたる。
大正7(1918)年には総理となり、平民宰相としてもてはやされた。就任直後に第一次世界大戦が終結。日本は戦勝国として、翌年発足した国際連盟では常任理事国となる。その一方で、大陸進出をめぐり、欧米中の各国と軋轢も生じていたから、協調外交を得意とする原はうってつけに思われた。
ただ、利益誘導型の政治がその富を貧乏人にも分配できるとは限らない。また、現実主義者ゆえ、富裕層が反発する普通選挙への移行にも消極的だった。それゆえ、大衆の人気はしだいに冷めていくことに。しかも、原は大正天皇と親しく、その病弱なことも知悉していた。皇太子・裕仁親王(のちの昭和天皇)を摂政とすべく、その前に見聞を広めてもらおうと半年間の欧州訪問を実現させる。これが一部保守派の反発を招いたのである。
皇太子が帰国した翌月、原は日記に「余を暗殺するの企ある事を内聞せり」としたためつつ「運は天に任せ」警備は不要だと書いた。その翌月、政友会の大会に向かうべく訪れた東京駅で、18歳の右翼少年に刺されてしまう。養子の原奎一郎によれば「ほとんど即死に近い最期」だったが、好物の葡萄酒を口に注がれると、ひとくちだけ飲みこんだという。
また、芸者から妾を経て正妻となった浅(あさ)の態度が見事なものだった。閣僚たちが遺体を官邸に運ぼうとしたところ、
「なくなれば、もはや官邸には用のない人ですから、芝の自宅のほうへ運んでいただきとうございます。これは主人の遺志でもあろうかと存じますので」
と言い、そうさせたのである。
ただ、日本はまだ彼を必要としていたかもしれない。抜群の政治力を持ち、当代きっての知米派でもあったこの男があと10年でも生きていれば、外交の方向性も多少は変わっていたのではないか。
原が亡くなった3週間後、皇太子が摂政に任命された。大正10(1921)年11月。昭和の治世は事実上、ここから始まった。
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