「畿内説」は史書によらない解釈論が目立つ
邪馬台国が九州にあったとする理由 第7回
『魏志』倭人伝を読み解き、「邪馬台国=九州説」を検証する第7回!今回が最終回。
『魏志』倭人伝に書かれた施設が揃うのは果たして――?
『魏志』倭人伝に書かれた施設が揃うのは果たして――?
畿内よりも北九州のほうが、
邪馬台国の記述に一致する
そして、『魏志』倭人伝は、倭人の武器について、次のように記している。
「兵(器)には、矛を用いる」
「竹の箭(や)は、あるいは、鉄の鏃、あるいは、骨の鏃(のもの)である」
例えば、北九州の吉野ヶ里遺跡では、防衛用の城柵も、楼観(高見櫓のこと)の跡らしいものも発見されている。奈良県の纏向(まきむく)の地から大きな建物あとが出て、卑弥呼の宮殿かと騒がれたりしたが、『魏志』倭人伝の記録とあっていない。そこからは防衛用の城柵も楼観のあとらしいものも出土していない。「宮室」「楼観」「城柵」「邸閣(倉庫)」などが、セットで発見されているのは、現在のところ吉野ヶ里遺跡だけなのである。
なお、私は、邪馬台国の中心部は、吉野ヶ里遺跡よりも北の朝倉市(旧甘木市)あたりであろう、と考えている。ここからは平塚川添遺跡が出土している。平塚川添遺跡は、全域を掘れば吉野ヶ里遺跡よりも大きいであろう、といわれている。しかし、残念ながら全域は発掘されていない。また、北の糸島市には平原(ひらばる)遺跡がある。ここからは、まさに卑弥呼の時代のものにふさわしい40面の鏡が出土している。質・量ともに、ホケノ山古墳をはるかに凌駕している。
以上のように出発点である『魏志』倭人伝に、全体的に、また具体的によく合致しているのは、畿内よりは北九州のほうである。畿内説は、たとえば「桃の種」が出土すれば、卑弥呼の鬼道と結びつけるなど、『魏志』倭人伝に基づかない「解釈論」が目立つのである。