西郷隆盛は征韓論者ではなかった
政治改革を断行するも志半ばで挫折
廃藩置県は西郷隆盛の存在なくしてはなし得なかった。当時明治新政府は、論功行賞に対する不満や政府のポスト争いなど、次々と困難な問題に直面していた。こうした問題を解決し、一大改革を断行するには人望や勇気、行動力がある人物が不可欠と西郷に白羽の矢が立ったのである(雑誌『一個人』2017年12月号「幕末・維新を巡る旅」より)。
◆西郷の存在なくして廃藩置県は成しえなかった
明治元年(1868)11月、戊辰(ぼしん)戦争の大勢が決したところで、西郷は鹿児島へと帰った。
「後は大久保らに任せて、自分は一線から退こうと考えたのでしょう。流罪中に感染したと思われるフィラリアの後遺症に悩まされていた西郷は、日当山(ひなたやま)温泉に滞在します」と鹿児島大学名誉教授の原口泉さん。
だが、薩摩藩主の島津忠義がじきじきに依頼してきたため、参政に就任。そして給与制度や常備兵強化などの藩政改革に努めている。
この間、明治新政府は論功行賞に対する不満や政府のポスト争いなど、次々と困難な問題に直面していた。政府内の揉め事に加え、民衆や職を失った武士の不満も膨らんでいたのある。こうした問題を解決し、一大改革を断行するには西郷の人望や勇気、行動力が不可欠と大久保は考えた。
明治2年(1869)に土地や人民を朝廷に返還する版籍奉還は実施された。しかし実質は、藩主がそのまま知藩事としてその地を運営していた。それを完全な中央集権の統一国家とするため、大久保や岩倉は廃藩置県を行おうと考えたのである。そこで手始めに薩摩、長州、土佐で先行してそれを行い、その三藩から御親兵を出し、さらに陸軍の鎮台を置いて反乱に備えることにした。西郷は「暴動が起きたらおいが鎮圧する」と述べ、参議を引き受けた。
そして明治4年(1871)7月、廃藩置県が行われ、約300の藩と200万人の武士の特権が消滅した。この大事業は、西郷なしには成し得なかった。
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