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ひとり歩きする「楽しい老後」に警鐘を

家族をしばってもいけない 60歳からの「しばられない」生き方②

祖父母が孫にお金を使うも使わないも自由

 60歳にもなれば、先の、涙を流した少年のような子どもはもういない。30代、40代の息子や娘であろう。代わりにいるのが孫だが、わたしに孫はいない。世のじいさんばあさんたちが、孫にどう接しているのか、わたしにはわからない。

「わたしはイクジイをやってますよ」と書いている本なら読んだ。平気で「イクジイ」と書く言語感覚の鈍感さに驚いた。知っているのはそれくらいである。それ以外で聞こえてくるのは、年寄りに金を出させようと画策する商売人たちの鼻息の荒さだけである。

「お盆玉」なる言葉ができた。お盆に帰省してきた孫にお金をやるというのである。わざわざ来てくれてありがとね、ということなのだろうか。

 当然、孫が小学校に上がる年になると、ランドセルを買ってやらなければならない。いつの間にか、それは祖父母の役割になってしまった(させられてしまった)ようである。というのも、シックス・ポケッツ(6個のポケット)なることが商売人のなかでいわれており、父母(2個のポケット)のほかに、両祖父母(4個のポケット)の金が狙われているからである。まったく油断も隙もあったものではない。

 もう外堀は埋められてしまった。孫のためには金をださなければならない。父母(自分の息子、娘)も最初から当てこんでいるのである。また、そのことが祖父母にとっては、頼りにされている、自分にできることがある、とうれしくもあるのだろう。もう大きくなった娘や息子のためにしてやれることは、少ない。そんなことならお安い御用だ、と思ったとしても、祖父母を甘い、と責めることはできない。

「子孫に美田は残さず」というのは西郷隆盛の遺訓である(正しくは「児孫のために美田を買わず」『西郷南洲遺訓』岩波文庫)。

 これは遺訓のひとつ(遺訓6)ではあるが、西郷は他人にもそうせよ、といっているわけではない。自分はしない、といっているだけである。そしてもし、自分がこの言葉と違うようなことをすれば、自分を見限ってくれ、と書いている。

 それはひとつの見識である(大前研一も「残さず派」である)。美田もなにもないわたしなどは最初から論外だが、残せる人は残していいのではないか、と思う。

 だれもが西郷のようになれるわけではない。ましてやいまの時代、息子や娘たちも厳しい生活をおくっている者も少なくない。

 しかし、うちのじいちゃん、ばあちゃんは余裕がなさそうだ、とわかる息子や娘は、そのことを察しなければならない。祖父母が孫にお金を使うのは当然、と考えているような子どもはただのバカ息子である。都合のいいときだけ、家族は固いおにぎりだと勘違いしているのである。

 家族によってしばられてはいけないが、家族をしばってもいけない。

〈『60歳からの「しばられない」生き方』より構成〉

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勢古 浩爾

せこ こうじ

1947 年、大分県生まれ。明治大学政治経済学部卒業。洋書輸入会社に入社、 34年間勤続し、2006年に退職。以後、執筆活動に専念。 著書に『いやな世の中』(ベスト新書)』、『まれに見るバカ』(洋泉社・新書y)、『自分をつくるための読書術』(筑摩書房)、『定年後のリアル』(草思社文庫)シリーズ、『ウソつきの国』(ミシマ社)など多数。


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