榎本武揚、箱館戦争における最大の誤算
「戊辰戦争」と 舞台になった 「城」を辿る
薩摩・長州両藩を中心とした「維新」を成し遂げるために、避けて通れなかったとされる「戊辰戦争」とは何だったのか。作家の星亮一さんにお話を聞き、「あの戦争」を敗れた会津藩、幕府軍の視点から考える。今回取り上げるのは、箱館戦争(雑誌『一個人』2017年12月号より)。
◆蝦夷地に新しい国家を求めた幕府兵の最後の戦い
1868年8月19日、海軍副総裁・榎本武揚は江戸湾の品川沖に投錨していた軍艦8隻を率いて脱出した。
江戸は開城し、彰義隊は敗走、関東の戦いも鎮圧され、越後も東北も苦戦し、会津も孤立している。反薩長勢力の相次ぐ敗退のなか、勝海舟に“動くな”と言われた榎本。新政府軍に抗して《一寸の虫にも五分の魂とやら》と軍艦の引き渡しを拒んだ榎本も、「将軍」の安全と徳川家の存続を確信できるまでは、抑止力として軍艦を活用する心積もりだったに違いない。
7月23日、水戸に謹慎中だった徳川慶喜と6歳の家達に従う旧幕臣たちを無事に駿府へ送り届けた後、8月19日、榎本はついに“立った”。ちょうど台風シーズン、房総沖で僚艦を失ったが奥羽越列藩同盟に助成しようと仙台に入港。だが、すでに形勢は不利で、仙台の藩論も降伏に傾いていたため、大鳥圭介や土方歳三、会津兵らを収容して、未開の地、蝦夷島へ向かった。幕臣や反薩長の藩士たちに新しい“国”を用意することを企図したのだ。
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