懇親会の季節と毛利輝元と石田三成 ~関ヶ原合戦のこと①
季節と時節でつづる戦国おりおり第453回
12月も下旬に入り、グググッと寒さが厳しくなって参りました。例年であれば忘年会の連絡があちらこちらから入ってくるシーズンですが、今年はみんな我慢と辛抱。早く新型コロナウイルス禍が収まって何の気兼ねも無く楽しめて飲食店の方々も今までの分を取り戻せるようになりますように。
そんなわけで、いつもであれば宴会で盛り上がるこの季節。今から422年前の慶長3年11月8日(現在の暦で1598年12月6日)、毛利輝元が石田三成らを招いて筑前博多で茶会を行った。博多の豪商・神谷宗湛の『宗湛日記』慶長3年(1598)11月8日の条には「安芸宰相殿御会(博多にて)、石田治少輔、サイカ(雑賀)内膳、宗湛、宗室、四人」とある。
嶋井宗室も博多の豪商で、石田治少輔はいわずと知れた石田三成。
豊臣秀吉が死んで朝鮮遠征の軍勢が引き揚げてくる中、豊臣家大老職のひとり輝元はその処置と出迎えのために博多まで赴き、実務を執る三成と博多経済界との円滑な連絡のために茶会を催したものと思われ、実際に数寄屋の二畳間での茶会をはさんで、その前後は夜に至るまでの雑談と振る舞いの席が設けられたのだった。
いうならば重大ミッションをなんとかやり遂げようという決起集会というわけだが、今回注目したいのは「サイカ(雑賀)内膳」だ。
彼については、この時点から2年後に起こった関ヶ原の戦いについての薩摩島津家の史料にその名前が登場する。
「雑賀」という名字から分かるように、彼は紀州雑賀の出なのだろう。雑賀といえば、鉄砲傭兵集団・雑賀衆が有名で、その頭目のひとりだった雑賀孫一は石山合戦で織田信長を散々苦しめたことで知られる。その正体は今ひとつはっきりせず、鈴木重秀、鈴木重朝・重次父子、平井良兼と複数の人物が該当するかと言われているが、実は雑賀内膳がこのうちの重朝だという説もある。重朝は豊臣家の鉄砲頭で、一万石を食んでおり、関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城攻めでは徳川方の守将・鳥居元忠を討ち取ったとされる男なのだが、もし雑賀内膳と同一人物だとすれば、内膳は豊臣家から三成の下に出向していたことになる。
鳥居元忠が討ち死にし伏見城が落ちるのは慶長5年(1600)8月1日。これに対して三成は7月29日に伏見へおもむいて城を包囲中の諸将を督戦し城攻めに参加するものの、翌30日に大坂城へ戻っている。だから、内膳が元忠の最期に関わったとすればそれは三成から命じられて後に残り、諸隊の働きぶりを監視する「軍目付」のような役割を任せられたのだろう。三成とともに毛利輝元の茶会に陪席させてもらえるぐらいだから、三成の名代だって務められるというわけだ。そして彼自身も戦闘に参加した。ざっとこんな経緯なのだろう。
ともかくもここで分かるのは、この雑賀内膳という人物がたしかに実在し三成に近いところで働いたということだ。
話は変わるが、関ヶ原合戦のときの記録にこの雑賀内膳が登場する。ひとつは『義弘公御譜』。
「三成の先備(さきぞなえ)志摩左近(島左近)・雑賀内膳等、敵兵に対し羽箭を飛ばし鉄炮(砲)を発す」
というのがそれだ。内膳が豊臣家の鉄砲頭という前歴を持つ鈴木重朝だったとすれば、「鉄炮を発す」というのはまさに彼の本領発揮と言える。
そしてもうひとつが『惟新公関原御合戦記』。こちらにはこう記されている。
「石田三成すでに備えを二段に設け、その一段は嶋左近父子、雑賀内膳を将とす。また一段は三成これにあって指揮す。皆道路の北に備う。次に嶋津中務大輔豊久冨の隈方(=島津義久方)の士卒、これに属す(三成が備をさる事一町半ばかりなり)。次に義弘(時に歳六十六)は藤川を越え、小関の南巽(みなみたつみ)に向かって備えを設く(豊久をさる事一町ばかりなり)」
以下次回へ続く!