皇位継承とはおよそ無縁…大海人皇子こと天武天皇は天皇になれないはずだった
天皇集権を目指した 天智・天武・聖武天皇の政治力③
皇位継承と無縁だったため外来の占星術・科学・文化に精通
天武天皇の両親は天智天皇と同じく舒明天皇・皇極(斉明)天皇である。同母の姉妹に孝徳天皇の皇后となった間人皇女がいた。家系を見る限り、天武が天皇になったのは当然のように思われる。だが、この時代、即位資格がみとめられていたのは、同じ母から生まれた兄弟のうち最年長の皇子(大兄皇子)であった。だから、中大兄の通称をもつ天智とは異なり、2男である天武には本来的に皇位継承権はなかった。同母兄弟が相次いで即位したのは6世紀前半の安閑天皇・宣化天皇の例ですでに終わっている。
天武は実名を大海人といったが、これは彼が大海氏出身の乳母に育てられたことによる。大海氏は当時異民族と見られていた諸国の海部を統括した豪族で、いわば異形の集団の首領というべき一族である。天武がそのような豪族の手で養育されたのは、彼が皇位継承とおよそ無縁の存在だったからこそであろう。
また、天武は「天文・遁甲」に精通していたと伝えられる。このように占星術など外来の科学・文化に馴染んだ天皇は前後に例がない。これも将来天皇になるのが約束されていた皇子では考えがたいことであろう。
天武は宮廷内で「大皇弟」とよばれていた。これは「おおすめいろど」と読み、「天皇になった御方の弟君」という意味である。この通称からも明らかなように、天武は天皇たる天智の弟として、生涯にわたり兄に奉仕を尽くすことが義務づけられていたことになる。
実際、天武は天智に命ぜられるままに、その皇女(姪にあたる)たちを娶り、草壁皇子・大津皇子らをもうけた。これは、近親結婚により天智・天武両方の血を濃厚に受け継ぐ皇子を生み出し、このような特殊な血統をもつ彼らを将来天皇に推戴しようという天智の構想にもとづくものであった。
天智は、草壁・大津らが成長するまでの中継ぎ天皇として、長男の大友皇子(母は伊賀国の豪族の娘)を立てようとした。「大皇弟」天武にはこの大友の輔佐役、さらには草壁・大津らの後見役が課せられたのである。